岩田亨の短歌工房 -短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎-

短歌、日本語、斎藤茂吉、佐藤佐太郎について考える

霧が丘短歌会2017年1月

2017年01月30日 | 霧が丘短歌会
 霧が丘短歌会 2017年1月講座 於)団地集会所


 この短歌会の特長は会員が熱心なことだ。10:00から12:00までの短時間だが質問が次々と出て、時間がオーバーする場合も珍しくない。最初は会場の事務方から退出の催促があったが、この頃ではあとに部屋の予約がなければ任されっぱなしになっている。そこが団地の集会所と言う気軽さ融通が利く。


 表現はまだ未熟なところがあるが、ポエジーを感じる作品が増えてきた。説明になる作品も減ってきた。よく出る質問。


 「擬人法は使ってはいけないでしょうか」「固有名詞を使ってはいけないでしょうか」「字余りはいけないでしょうか」「意味の通じる短歌でなくてはいけないでしょうか」。


 擬人法、固有名詞、字余り。これには原則がある。


「擬人法は表現がわざとらしくなる場合が多い。」「固有名詞は情感を固定する場合が多い。」「短歌は現代の定型詩だから字余りは極力避けたほうがよい。」


 ただしこれは飽くまでも原則。擬人法、固有名詞、字余りに必然性があり、これによって作品の発する印象が強くなる場合もある。ではどういう場合に必然性があると言えるか。これは一言では言えない。僕もかつて「星座」の尾崎主筆に同様の質問をしたことがある。「必然性のある字余りとはどういう場合でしょう。」答え「そんなこと言葉では言えません。そうせざるを得ない思いになるんです。」


 その時に僕は分かったような受け答えをしたが、この頃実感するようになった。「言葉に、声に出して、判断するのだ。「詩人の聲」で自分で聲を撃つこと約30回、ほかの詩人の聲を聞くこと180回はあったろうか。短歌も現代詩も作品を聲に出して鑑賞、作品の推敲をするようになった。つまり聲に出せば必然性のありやなきやがおおよそ判断できる。

 だかここまで足掛け3年かかった。だから「擬人法、固有名詞、字余り」は原則として使わないほうが良いと思う。そのうちに自分でそうせざるを得ないよ感じるようになる。それは前触れもなくやって来る。


 意味の通らない作品。これは作品の印象の強さによる。現代詩の象徴派(吉田一穂)、シュールリアリズム(西脇順三郎)、短歌の塚本邦雄は、読んで一般的な意味の「意味がとれる作品を書いていない。しかし読んでみると強烈な印象が残る作品だ。美術のピカソもそうだ。作品の発する印象が鮮烈である。だから印象が浮き上がってこないであれこれ解釈を加えなければならない作品はただの自己満足だ。


 詠草の最後に塚本邦雄の『水葬物語』から作品を選んでそれを確認した。安易に「塚本邦雄のような作品を作りたい」と言う会員はいなくなった。塚本邦雄のような作品が作りたいならそれはそれでもいい。だがそれならば目に見えるものを作品化する力がなければいけないだろう。


 引き続き会員を募集する。歌会は毎月第四日曜の10:00から12:00まで。申し込み問い合わせ、045-922-5542(岩田自宅)


 2月の歌会は2月27日(月)10:00から。
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