岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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肥前長崎の歌:斎藤茂吉の汎神論的「写生」

2010年05月16日 23時59分59秒 | 写生論の多様性
・あはれあはれここは肥前の長崎か唐寺の甍にふる寒き雨・

 「あらたま」所収。1917年(大正六年)作。

 この作品、佐藤佐太郎著「茂吉秀歌」にはとりあげられていないが、長沢一作著「斎藤茂吉の秀歌」では「人口に膾炙して久しい」と書かれ、塚本邦雄著「茂吉秀歌・あらたま百首」ではさらに詳しくとりあげられている。

 それはさて置くとして、島木赤彦や土屋文明との違いが際立っているという意味において、この作品は非常に重要なものだと思う。

 斎藤茂吉の「写生論」は汎神論的であるとともにその作品は声調に緩急があり、そこに最大限の配慮がなされている。そういう「茂吉らしさ」が出ている作品である。

 まず「あはれあはれ」と初句から大胆に詠み始められていること、しかも「あはれ」は主観語である。これは島木赤彦にはなかった傾向である。
 「肥前の長崎か」の表現はやや芝居がかっているが、下の句の実景のとらえかたがそれを打ち消している。「声調」の緩急は土屋文明とは好対照である。

 「実相観入」。「実相に観入して自然・自己一元の生を写す。」これらの言葉に「汎神論」的性格を見出すことは容易であろう。

 おしなべて言うなら、赤彦の写生論は「客観写生」、茂吉の写生論は「汎神論的」、文明の写生論は「リアリズム・新即物主義」である。

付記:「汎神論=全てのものに神が宿っているという哲学上の考え方」






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