岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

大河流れる国の歌:与謝野晶子の短歌

2010年07月16日 23時59分59秒 | 私が選んだ近現代の短歌
・遠つあふみ大河流るる国なかば菜の花さきぬ富士をあなたに・

 「舞姫」所収。1905年(明治38年)作。

 「遠つあふみ」は旧国名の「遠江・とおとおみ」。現在の静岡県西部を指す。そのほぼ中央を天竜川が流れている。だからここでの「国なかば」とは「遠江の国」のなかほどという意味だろう。

 浪漫的に詠まれた叙景歌である。それだけに同時代の伊藤左千夫とは感じ方が異なったようだ。また伊藤左千夫は「国なかば」を「日本のほぼ中央」と考えたらしい。実はこの考え方の違いに当時の浪漫派と写実派の特徴の違いがあるのだが、ここでは「国」を「遠江・とうとうみ」ととらえるか、「日本」と捉えるかの違いだけ注目しておこう。


 ところで伊藤左千夫は、改作案を提示している。

・国断てる大河に続く菜の花や菜の原遠に富士の山見ゆ・(「与謝野晶子の歌を評す」)


 しかし「国なかば」の読みが異なっており、「国断てる」がやや大袈裟かとも思う。伊藤左千夫からすれば、「富士をあなたに」の表現が甘いと感じられたのであろう。だから、「国断てる」を除くとして、伊藤左千夫の作のほうが重量感のような印象がある。それに対して、与謝野晶子の作品は甘美である。

 写実派の論理で浪漫派の作品を評するところに無理があろう。浪漫派の作品は「甘美な情感がでているかどうか」で判断すべきだろう。与謝野晶子の作品には、「ながるる」「なかば」「なのはな」と「な」の音を重ねたところも注目点の一つだろう。



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