UGUG・GGIのかしこばか日記 

びわ湖畔を彷徨する独居性誇大妄想性イチャモン性前期高齢者の独白

裁判官たちは原発問題についてどのように考えているのか・・・

2018-02-21 01:57:42 | 日記
一昨日、1月19日の夕方、市内某所で原発裁判についての講演会がありました。裁判の経過や判決の法的意味・意義といったものは法律の専門家以外の者にとっては理解困難な部分が多々あり、原発に関する裁判も例外ではありませぬ。

どのくらい理解困難か、その一例を述べますと、これは以前にも書いたことがある話ですが、かつて湖国の地方政府を相手に公金のムダづかい(違法な支出)に関する、数人の知人たちに協力して行った裁判(弁護士をつけない本人訴訟)の一審判決が下されたときのことです

裁判長が一気に読み上げる判決文を聞いていても、原告一同、勝ったのか敗けたのか判然としませぬ、そのため閉廷後に判決書をもらって判決文を読んでいましたら、横からのぞいていた新聞記者が「これ、勝ってますよ!ここ、判決文の四番目の項に《知事は金員○○○○万円を支払え》と書いてあるでしょう、だから勝ったのですよ!これ、完全勝訴ですよ》と教えられて、「ああ、そういうことなのか・・・」と、やっと裁判に勝ったことを理解したのでありました。あとは笑いが止まりらない記者会見となりました。まったくワッハッハと笑ってごまかさざるを得ないまことに恥ずかしき想ひ出であります

かようなに裁判というものは素人にはまことに難解なものでありますから、GGIは現在原発や安保法制に関する二、三の訴訟にGGIも関わっていることになっているのですが、裁判に関連した各種書面や決定書、判決書の類をちゃんと読んで自分のオツムでしっかり考えるということはさぼっりぱなし、新聞記事を読んで分かったふりをしているものの、裁判の意味や内容についての理解は恥ずかしくなるほどお粗末です。

かようなしだいで、原発に関する裁判について法律の専門家である弁護士さんからまとまった話が聞けそう、これはまことにありがたいことであることよと思い、この講演会に出かけたのです。参加者は三十人ほどの小さな講演会でありました。

講師は元裁判官であり、福島原発事故より以前に、唯一原発差し止め判決を出して経験の持ち主(志賀原発、金沢地裁)である井戸謙一弁護士(滋賀弁護士会)でした。二時間にわたり現在全国で約38件行われている原発や被曝・損害補償などに関する裁判の全体像について、わかりやすくていねいに話され、とても勉強になりました。

話は多岐にわたったのですが、この講演のなかでGGIが一番気にかかったことは「裁判官協議会」なるものについての話でありました。

この協議会なるものが日本の司法制度のなかでどのような役割を担ったものであるかは、GGIには定かではありませぬが、たとえば全国のあちこちで同種の訴訟が数多く行われている場合に(あるいはそのような事態が予想される場合に)、裁判所によってあまりまちまちの判決が出されるようでは問題となりかねず、そうした事態が生じるのを防ぐために、「裁判官協議会」が開催されたりするようです

裁判官は本来一人一人が完全に他者から独立した存在であるとされていますので、裁判官が寄り集まって意思統一を図るようなことは問題ではないかという考え方もあり、元東京高裁の裁判官である瀬木比呂志氏はその著作「絶望の裁判所」(講談社現代新書)で「裁判官協議会」の存在を批判的に記されていたようにGGIは記憶しているのですが、現実に「裁判官協議会」は少なからず開かれているようです。

井戸氏の説明によれば原発問題に関しては、2011年3月の福島原発事故後、二度裁判官協議会が開かれています。協議会における議論の内容は以下のようなものであったとされています

《平成24年(2012年)1月26日付け特別研究会》
・現在の科学技術水準に照らした検討等を慎重に行うという姿勢で(裁判に)臨むのが適当。
・放射能汚染の広がりや安全審査の想定事項等、本件事故(福島原発事故)を踏まえ従来の判断枠組みを再検討する必要がある。

この協議会における上記のような考え方はおおむね妥当なものであると言えるでありませう、最新の科学技術の水準に照らして検討を行うことは当然すぎるぐらい当然のことであり、また福島原発事以前における従来の判断枠組みを見直し、再検討する必要があることは言うまでもないことであるからです。

ところが、福島原発事故からおよそ2年後の平成25年2月に行われて二回目の協議会での議論の内容は以下に示すように大きく変化しています。

《平成25年2月12日特別研究会》
・基本的には伊方原発裁判に判断枠組みに従って今後も判断していくことになると思う。
・伊方原発裁判の枠組みで判断することに賛成である。
・事故のリスクにつきどこまでの確率なら許容するかというのは、専門技術的裁量の問題ではなく政治的決断の問題であって、裁判所の判断になじまないのではないか

注:二回目の協議会で出てくる「伊方原発裁判」というのは、福島原発事故以前の、1973年から2000年にかけて、四国電力伊方発電所の安全性をめぐって争われた裁判のことを意味しており、この裁判は建設に反対する住民側の敗訴に終わっています。

どうです、裁判官諸氏、わずか一年目前の前回の協議会から見事な変身ぶりでありませんか!

一年前には、福島原発事故を踏まえてそれまでの、事故以前の、判断の枠組みを再検討する必要があるとしていたにもかかわらず、一年後には事故以前の判断の枠組みであるところの当初の伊方原発裁判における判断の枠組みに今後も従って判断することにするのがいいのではないか、というのです。何という変わり身の早さでありませうか、あきれる以外にありませぬ。

また、原発事故がおきるリスクに関しては、大事故が起きる確率がどの程度のものであれば許容されるかは、科学技術的に裁量される問題ではなく、政策的問題であって、裁判所の判断するところではないのではないかというのです。

何ということでありませうか、これは結局のところ、裁判所は判断を下すことを回避し、実質的に政府の判断に任せるということを意味しています。これでは司法の責任の放棄に等しいというべきであります。国民が裁判所に原発の安全性について法的判断を求めているというのに、裁判所の判断になじまないのではないかというのでは、よ裁判所は、司法は、無きに等しいということ、原発問題は政府の方針に従えということになってしまいます、

このような考え方について、井戸氏は、日米安全保障条約の違憲性を問うた砂川裁判の上告審で最高裁(田中幸太郎長官)が持ちだした「統治行為論」に似た発想による考え方であると説明されていました。

砂川事件というのは、1957年にアメリカ軍の立川基地拡張に対する反対運動の過程で起きた事件のことであり、米軍駐留の根拠とされている日米安全保障条約の違憲性が争われ、一審では伊達裁判長により米軍の駐留は憲法第9条に違反するとする違憲判決が下されたものの、控訴審を省略して行われた上告審(跳躍上告)において、最高裁は「統治行為論」として知られる考え方を持ち出し、安保条約に関する問題は光都に政治的な問題であるとして、米軍に関する憲法判断を放棄し憲法判断を示しませんでした。その結果、東京地裁に差し戻され、最終的には原告側は敗訴しました。

統治行為論とは、“国家統治の基本に関する高度な政治性”を有する国家の行為については、法律上の争訟として裁判所による法律判断が可能であっても、これゆえに司法審査の対象から除外すべきとする理論のことをいう、とされています(ウィキペディアより引用)。

要するに安保問題のような「高度に政治的」な問題については司法は判断を回避するいうことであり、その結果、司法は政府あるいは国家がその方針を貫くことを実質的に容認することになります。

上記の二回目の裁判官協議会における考え方は「統治行為論」そのものではありませんが、「政治的決断の問題」であるとする考え方は「「統治行為論にきわめて近い考え方であると思われますが、みなさんはどのようにお考えになるでありませうか・・・

すべての裁判官が必ずしも上記のような協議会の考えに従うとは限らず、現に再稼働の差し止めを認める仮処分の判断が示された例も二、三あります。しかし、これまでのところ、最高裁で最終的は判断が示されるに至った訴訟は皆無です。最高裁での審議の対象となった場合に、最高裁がこのような統治行為論的な判断を示すことになるのではないかと、GGIは懸念いたします

今日の写真は講演で示された資料から裁判官協議会についての部分を撮ったものです。よろしければクリックしてご覧くださいませ

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・

グッドナイト・グッドラック!
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