史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

勝山

2017-06-17 15:57:05 | 福井県
(勝山市役所)
 福井の人は勝山のことを「かっちゃやま」と呼ぶ。
勝山は雪の多い福井県でも有数の豪雪地帯である。今でも語り草になっている「三八豪雪」(昭和三十八年)のとき、除雪して積み上げられた雪の上を歩いていて躓き、何かと見たら電信柱の頭だったという、ウソのような話が伝わる。
人口数万人という山奥の小都市に私は、中学生のとき一度訪れたことがある。勝山には県内有数のスキー場が複数存在している。勝山でのスキーが、初めてのスキー体験であった。
 覚えていることといえば、スキー場の窪みに入ってしまい、そこから這い出るのに半時間くらいかかってしまったことである。私以外に見ず知らずのオジサンもその蟻地獄に陥っており、そのオジサンと無言で悪戦苦闘したのが不幸なスキー初体験であった。
社会人になった頃、世はスキー・ブームで、会社の行事や友人たちによって幾度となくスキーに連れていかれたが、今一つスキーを好きになれなかった根底には、勝山での不幸な原体験があったような気がしてならない。


勝山城址之碑

 勝山藩は元禄年間以降、小笠原氏の城下であった。藩庁のあった勝山城には天守閣は築造されず、明治になって破却されたため、遺構は見事なほど何も残っていない。市役所の入口に城址碑があるのみである。
 なお、勝山市の中心部から離れた平泉町に勝山城博物館という施設があり、立派な城郭状の建物を備えているが、実際には勝山城とは何の関係もない。

(開善寺)


開善寺

 開善寺は、勝山藩主小笠原家の菩提寺である。元禄四年(1691)、小笠原貞信が美濃高須から勝山に移ってきたことに伴い、勝山に移ってきた。墓域は三段に仕切られ、正面の最上段に歴代藩主の墓が並ぶ。向かって左から七代長貴、初代貞信、二代信辰、三代信成、四代信胤、五代信房、六代長教、そして一男右が八代長守のものである。
 西側には家族の墓が並んでいる。


小笠原家墓所


小笠原長守の墓

 小笠原長守は、幕末の勝山藩主。天保十一年(1840)、家督を継いだ。天保十四年(1843)には藩校成器堂を開設した。嘉永元年(1848)には軍制改革し、専売制を導入し、藩政改革に成功した。しかし、幕命により河川工事普請を務め、さらに安政の大地震により藩邸が崩壊したため出費が重なり、藩財政は逆戻りしてしまった。長守は家老林毛川を罷免した。元治元年(1864)には幕府の大阪加番に登用された。戊辰戦争では新政府側につき、明治後は藩知事にも任じられた。明治二十四年(1891)五十八歳で死去。

(神明神社)
 以下、長守が開いた藩校成器堂の遺構を紹介する。最初は神明神社に移築された成器堂講堂である。


神明神社


旧成器堂講堂

 成器堂は、天保十二年(1841)、勝山城外追手筋に建てられた藩校で、もとは読書堂といわれ、藩医秦魯斎の熱意と魯斎の進言を取り入れた家老林毛川の努力により実現した者である。
この建物は、明治四十四年(1911)、現在地に移築された講堂である。瓦には勝山藩主小笠原家の家紋「三階菱」があり、外観はほぼ当時のままである。

(成器堂門と土蔵)
 この門と土蔵は、成器堂の遺構である。明治に入ると成器堂の建物と建学精神は成器小学校に引き継がれたが、古くなった藩校の建物は、新学舎建設に際し解体された。その際、今井家が門と土蔵を買い取り、この地に移した。


成器堂門と土蔵

(成器堂演武寮)
 この建物は藩校成器堂演武寮である。明治十二年(1879)、大火により布市の道場が焼失した時、この建物を買い取り移築したものである。藩校の建物が、これだけ現存している例は、全国的に見ても珍しいだろう。


成器堂演武寮
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