史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

西宮 名塩

2016-10-15 23:52:19 | 兵庫県
(JA兵庫六甲名塩)


緒方八重像
台座石に「蘭学の泉ここに湧き出ず」と記されている。

 西宮市の名塩といえば、小学校時代に二士の宮市で過ごした私の個人的感覚では随分と遠い場所であるが、今や開発が進み立派なベッドタウンと化している。幕末、名塩に蘭学の花が開いた。
 この地に蘭学塾を開いたのは、伊藤慎蔵であった。伊藤慎蔵は、大阪の緒方洪庵の適塾で塾頭を務めた人で、文久二年(1862)、この地で名塩蘭学塾を開いた。その始まりは洪庵夫人の生家である億川家の一室からであったが、塾の名声を聞いて近在から多くの若者が集まり、一室では収容し切れないほどの盛況ぶりであったという。
 現在、名塩蘭学塾のあった場所にはJA兵庫六甲名塩支店の建物が建ち、玄関の左側に緒方夫人八重の胸像が置かれている。また、名塩東口から名塩バス停に至る旧道は、蘭学通りと名付けられている。

(名塩墓地)
 名塩塾から西へ進んだ住宅街の奥に墓地がある。古い墓石が並ぶ中に億川百記の墓がある。


億川百記墓(左)

 億川百記は、大阪の中天游の蘭学塾で学んだ。緒方洪庵とはここで同門であり、二人の交友はここから始まった。洪庵は億川百記の娘八重を娶り、百記は終生洪庵を支援したといわれる。
 百記の長女八重は、十七歳のとき洪庵に嫁ぎ、病弱の洪庵をよくたすけた。殊に洪庵の適塾で学ぶ多くの青年達を我が子の如くかわいがった。福沢諭吉、伊藤慎蔵、佐野常民、大村益次郎ら、いずれも夫人を慈母のように慕っていた。八重は明治十九年(1886)、六十五歳で大阪鶴橋にて没したが、その会葬者は三千人に及び、佐野常民が葬儀委員長となった。

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