史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「「会津の悲劇」に異議あり」 八幡和郎著 晋遊舎新書

2017-07-29 20:00:48 | 書評
「会津の悲劇」ばかりを強調し、会津藩を「悲劇のヒーロー」に仕立て、敵役の薩長は全て「悪」という論調には正直にいって辟易しているが、本書の八幡和郎氏の主張は、「会津の悲劇」を真っ向から否定するものである。我々は同じ史実を見ているはずなのに、見る人によって右にも左にも見えてしまう。これが歴史の難しさであり面白さでもあるが、結局真実は何だろう。後世の人間は結局真実を知ることはできないのであろうか。
会津武士のルーツは大半が信濃で、三河、近江、甲斐、出羽と続く。江戸以前からの会津武士が、保科氏に取りたてられた比率は低いという。筆者は、純粋な会津魂は土着のものではなく、信州の気質こそが会津魂そのものと主張する。それが事実としても、会津という土地で何代にもわたって生活をすれば、それは立派な会津人なのではないか。幕末の会津武士のルーツが会津にないからといって、会津藩士が幕末史に足跡を残した事績をいささかも毀損するものではないだろう。
筆者の批判の矛先は、藩校日新館における教育に及ぶ。藩校では漢学しか教えない。意味も分からず素読をするのは「アルカイーダの神学校のようなもの」とたとえるが、これはちょっと言い過ぎではないか。この時代、日新館に限らず藩校における教育は漢学が中心であったが、アルカイーダのように過激思想を植え付け、テロリストを育成しようというものではない。
有名な「ならぬものはならぬのです」という「什の掟」についても、「一方的な推しつけによる幼児教育は、現代的な教育論の立場からは強く批判されている」とする。しかし、百五十年前の教育を現代の尺度で批判するのにどれほどの意味があるのか。そもそも育成しようという人材像が、当時と現代ではまるっきり違うのではないのか。
松平容保は忠義の人として知られるが、筆者にいわせれば江戸幕府ではなく、孝明天皇に忠義を尽くしただけで、「将軍より天皇に忠実であるべき」というのであれば、明治天皇の意向に沿うべきだという。そうではなかったということは、単に孝明天皇に従順だっただけと指摘する。しかし、その当時の明治天皇はまだ十六歳の少年であり、孝明天皇のような政治向きの判断ができたわけでなく、実質的には岩倉具視や薩長の言いなりであった。その天皇の意向に沿えというのは、容保に酷かもしれない。
筆者は、身分を越えて士分に登用されることを期待して新選組に参加する若者を「ヤクザに身を投じる若者」と「共通の心理」というが、そこまで貶めるのはどうだろう。勤王の志士は「彼らの主張は筋が通っていたし、市民から支持もされていた」と一方的に評価するが、テロを繰り返す不逞浪士に全面的に正義があるとも言い難い。私も決して新選組を手放しで称賛する気はないが、ヤクザと同一視するのも違和感がある。
司馬遼太郎先生が「街道をゆく」で「明治政府は、降伏した会津藩を藩ぐるみ流刑に処するようにして(シベリア流刑を思わせる)下北半島にやり、斗南藩とした」と記述したことに対して、「これはひどい誤解」「事実と違うことを創作するべきではない」と批判する。しかし、戊辰戦争後、会津藩士が斗南に流刑同然に送られたことは、柴五郎の手記にも記載されていることだし、何も司馬先生だけが主張していることではない。司馬先生の小説にしても、随筆にしても、フィクションをあたかもホントの話のように語る場面があって、読者は騙されないように注意する必要がある。そのことは否定しないが、本件をもって司馬先生を批判するのはちょっと筋違いのように思う。
一方で坂本龍馬が「船中八策」を後藤象二郎に示したと記述しているが、先に紹介したように青山忠正先生に拠れば、「船中八策」は後世の創作であり、もともと存在しないものである。筆者こそ、史実にないことをさもあったかのように書いていることを反省すべきであろう。龍馬暗殺犯についても、見廻組の佐々木只三郎が、会津藩在京公用人の手代木直右衛門の実弟であるという事実をもって、「暗殺を指示したのは松平容保ないし、その弟で桑名藩主の松平定敬らしい」と結論付けているが、これもあまりに裏付けに乏しい。
筆者は「まえがき」で「できる限り中立な立場から、頑固固陋な悪玉でも、逆に悲劇の主人公となった正義漢でもない、会津藩の真実を明らかにしていきたい」としているが、正直にいってとても「中立な立場」とは思えなかった。
一方で「斗南は寒風吹きすさぶ未開地ではない。実収は表高より低い七〇〇〇石だったと広く信じられているが、これはどう考えてもおかしい」という主張は耳を傾けるに値する。悲劇を潤色するために、実収を過小に評価した気配が濃厚である。

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著者より (八幡和郎)
2017-07-30 12:35:40
拙著を紹介頂きありがとうございます。少し、誤解のある部分を指摘しておきます。
松平容保は保科正之の遺言に従えば朝廷でなく幕府に忠実であるべきだったのに朝廷(孝明天皇は独裁者だったので朝廷と同義)の意向にそったので、幕府に対しては忠実でなかったし、朝廷が集団指導体制になったのちは、朝廷の意向に従ったわけでないので、一貫した哲学がないという意味です。
会津や新撰組が京都市民から評判が悪かったのは歴史的事実です。
会津藩士たちが斗南で辛苦をなめたのは事実ですが、そもそも、地元民の評判が悪くて猪苗代でなく斗南への移転を望んだのは山川浩ら会津側です。また、もともと食料備蓄もない斗南の地に無計画に人員整理もせずに大人数を送り込んだのも山川浩らの責任で新政府の問題ではありません。それどころか、新政府はそれなりに支援もしています。
会津土着の人々の気質は小原庄助さんに代表されるように福島県人全般と同じくおおらかです。一方、会津武士は200年たっても典型的な信州人のものです。
日新館の教育については、山川健次郎が13歳になっても九九さえおしえられていなかったというだけでもどんなものか明らかでしょう。
ご指摘有り難うございます (植村)
2017-08-01 08:22:42
八幡和郎先生

ご多忙の中、ご丁寧なコメントを頂戴して大変有り難うございます。会津藩士が自ら猪苗代ではなく斗南を択んだという話を私が知ったのは、比較的最近(精々5年くらい前)のことで、司馬遼太郎が「街道をゆく 白河・会津のみち」を書いた80年代、「斗南へ挙藩流罪」と書いた時点ではこれが通説だったのかとも考えたりしています(もっともその十年後の「北のまほろば」でも同じ主旨のことを書いていますが)。これは私の想像でしかありません。司馬遼太郎大好きなもので、済みません。今後ともよろしくお願いします。

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