史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

相良

2012年03月04日 | 静岡県
(相良小学校)


相良小学校

 相良町は、平成十七年(2005)の合併により、現在牧之原市の一部となっている。相良郊外に出ると、日当たりの良い土地は一面茶畑となっている。この辺りも明治後に旧幕臣ら士族によって開拓された土地であろう。

 相良藩の設立は、宝永七年(1710)。本多氏が三代三十六年間続いたが、延享三年(1746)に奥州泉に移った。
 有名な田沼意次が相良藩主となったのは、宝暦八年(1758)のことで、当地に相良城を築いた。築城には十二年という歳月を費やし、三重の堀を巡らし壮大華麗なものだったという。しかし、意次が失脚すると、天明七年(1887)、相良城も没収されて間もなく大半が取り壊された。現在、相良小学校や市役所などが建っている場所がその跡地に当たる。小学校の校舎前に田沼氏居城趾と書かれた小さな石碑を見ることができる。


田沼氏居城趾


相良城模型

 小学校の裏には、相良城を再現した模型が置かれている。往時を知るよすがとしては、校庭に立つ九本のクロマツがある。この松は二ノ丸の土手にあったものである。


相良城二の丸のマツ

(牧之原市立相良史料館)


相良城趾

 前期田沼氏の治世は、三十年足らずで終息するが、文政六年(1823)再び田沼氏が相良領主に封じられた。後期田沼氏は、意正、意留と引き継がれ、天保十一年(1840)意尊が藩主となった。
 本丸跡地には現在牧之原市立相良史料館が建てられている。意尊に関するものが展示されていないか探してみたが、やはり大半は知名度の高い田沼意次に関するものであった。意尊の書軸など数点を見ることができた。
 史料館の展示で目を引いたのは、元治元年(1864)田沼意尊は、天狗党の騒乱鎮圧のため、幕府の命を受けて出兵するが、そのときの借金が嵩み、返済に窮した家老井上某が慶応二年(1866)、責任をとって切腹したという。そのときの資料が展示されている。出征費は当然幕府が負担したのかと思ったが、そうではなく自弁だったようである。天狗党の騒乱は、追討を受けた水戸藩だけでなく、相良藩にも厳しい結果を強いたのである。


相良城本丸跡

(相良油田油井)
 「日本に油田があった」ことなど、知っている人がいるだろうか。
 明治五年(1872)二月、村上正局(まさちか)が当地で相良油田を発見し、同年五月には石坂周造が開坑採掘を開始した。因みに石坂周造は「石油」の名付け親と言われている。翌明治六年(1873)には機械削井に成功した。大正初年のピーク時には手掘井は百五十坑を数えた。明治十七年(1884)には出油量が最高に達し、年産七百二十一klを記録した。現在、昭和二十五年(1950)に開坑された機械堀井一基が残されているのみである。


相良油田油井

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