史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

芦花公園

2017年05月20日 | 東京都
(蘆花恒春園)


徳富蘆花旧宅


蘆花恒春園

 最寄りの駅は、京王線芦花公園駅である。駅名は「芦花」であるが、その名のもととなった公園名は「蘆花」である(世田谷区粕谷1‐20‐1)。
 蘆花恒春園は、文豪徳富蘆花(健次郎)が明治四十年(1907)、四十歳のときから二十年間を過ごした場所である。名の由来は、台湾の南端の恒春に因む。蘆花はこの地名を気にいり「永久に若い」という意味を込めて自宅に転用した。園内には、蘆花の作品や遺品を展示する蘆花記念館や、かつて蘆花が起居した茅屋、愛子夫人が蘆花の没後、居住した住宅などが移築・展示されている。蘆花はこの地で晴耕雨読の生活を送ったといわれる。昭和二年(1927)、病気療養のために転地した伊香保で死去した。五十八歳であった。
 徳富蘆花の代表作といえば、「不如帰」が有名であるが、個人的には関寛斎の晩年の姿を描いた小編を含む「みみずのたはこと」の作者として記憶に刻まれている。蘆花は「みみずのたはこと」をこの地で執筆し、大正二年(1913)、発表した。


梅花書屋
白鶴翁筆

 梅花書屋は、蘆花が明治四十二年(1909)に松沢町北沢(現・世田谷区)に売屋があるとの情報を得て、早速見に行って手付を渡し、手に入れた建物である。室内に掲げられている横額は薩摩の書家鮫島白鶴翁の筆によるものであり、蘆花の父徳富一敬から譲られたものである。白鶴は、西郷隆盛の書の師である。


徳富蘆花夫妻之墓

 恒春園に隣接した場所に徳富蘆花夫妻の墓がある。墓碑は、兄徳富蘇峰の筆による。墓誌は、蘆花死去の直後、やはり蘇峰によって漢文で記され、石盤に刻まれてこの墓に納められている。

(粕谷共同墓地)
 蘆花恒春園内に墓地があり、その入口付近に下曽根信守の墓がある。下曽根信守は、千歳教会堂に務めた牧師で、千歳村の人々に厚く信頼され、最期は皆に看取られたとされる。蘆花は「みみずのたはごと」の中で下曽根牧師への追悼を述べている。


故下曽根信守墓

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