北越戦争の地、新潟の旅を計画したのは、もう数年前になる。以来なかなか実現できずにいたが、このゴールデンウィークは、会社は連続して一週間の休みというのに、子供たちはカレンダー通りの飛び石連休であった。そこで嫁さんに頼み込んで、五日間の自由をもらった。連休前に仕事から帰ると、慌しく夕食と風呂を済ませ、飛び立つようにハンドルを握った。夜九時に八王子を出て、深夜十二時前に魚沼IC手前の大和SAに到着した。ここで夜を明かし、夜明けとともに活動を始動した。
目が覚めて車外を見ると、深い霧が立ち込めていた。やがて霧が晴れると、驚いたことに、もう四月末というのに至るところに雪が残っていた。
この五日間の走行距離は千七百kmを超え、撮影した写真も六百八十枚を数えた。当初計画していた史跡は九割以上踏破できた。ただ残念なのは司馬凌海を生んだ佐渡島上陸を果たせなかったことである。佐渡を諦めざるを得なかったのは、一つにはレンタカーを予約できなかったためである。震災の影響で観光客は激減していると聞いていた。といっても直前までレンタカーを確保していなかったのは、いくらなんでも失敗であった。もう一つの理由は、天候である。今回の旅程のうち、半分は雨であった。しかも一時暴風警報が発せられるほどの荒天であった。ただでさえ船に弱い私には致命的であった。心残りではあるが、佐渡は次の機会までお預けである。
(正圓寺)
正圓寺
大龍和尚碑
大龍和尚は、文政三年(1820)の生まれ。大浦村西福寺の住職を務めたが、戊辰戦争後、当時正圓寺の隠居(監寺)として小出戦争の会津藩戦死者を葬り、戒名を与え墓碑を建てた。その大龍和尚を顕彰した碑が正圓寺入り口近くに建てられている。
(大塚墓地)
戊辰戦死者墓
昭和四年(1929)に地元有志の手によって建立されたもの。
戦死者十名の戒名が刻まれた墓標
傍らの墓には、戦死者十名の戒名が刻まれている。この墓は、大龍和尚が小出島における会津藩戦死者を自費でもって火葬し、戒名を授けて建てたものである。
鉄應義膽居士
もう一つの墓は、氏名不詳であるが、市内青島で自刃し、林泉寺より戒名を受けて建てられた戦死者のものである。
(小出陣屋跡)
小出島は、会津藩の飛び領地であった。会津藩は陣屋に代官を置いて統治していた。
慶応四年(1868)四月、戊辰戦争で小出島は激戦地となったが、会津藩士十四名が戦死している。
懐旧碑
戊辰戦役懐旧碑は、篆額子爵松平容大、撰文南摩綱紀。懐旧碑の隣の小さな墓石に戦死者十四名の名前が刻まれている。
望月武四郎歌碑
津々於登耳(つつおとに)
鳴久ね(なくね)
や春免し(やすめし) 告希よ(つげよ)
本と々幾須(ほととぎす) 毛能々夫ふの(もののふの)
会津尓(あいづに) 死を
輪形月
輪形月(わがたつき)とは、満月のことで「望月」を暗示したものという。
会津藩士望月武四郎は、負傷して民家に匿われていたが、戦後残党狩りが始まると、領民に迷惑が及ぶと判断して家を出て自刃した。望月武四郎の辞世が刻まれた石碑は、昭和六十三年(1988)、戊辰戦争百二十年を記念して建てられた。
(諏訪神社)
諏訪神社周辺も、戊辰戦争で激戦となった。本殿内の柱には弾痕が残っているというが、扉が閉ざされており内部は確認できず。境内には平成八年(1996)に建てられた「会津藩烈士之碑」がある。
諏訪神社
会津藩烈士之碑
(林昌寺)
林昌寺
大銀杏
諏訪神社の近くにある林昌寺の大銀杏には戊辰戦争の銃弾が残っていると言われていたが、樹勢の衰えが顕著になり倒れる恐れが高くなったため、平成二十年(2008)に伐採された。その際、言い伝え通り銃弾が発見された。現在は太い幹の部分が残されているのみである。
目が覚めて車外を見ると、深い霧が立ち込めていた。やがて霧が晴れると、驚いたことに、もう四月末というのに至るところに雪が残っていた。
この五日間の走行距離は千七百kmを超え、撮影した写真も六百八十枚を数えた。当初計画していた史跡は九割以上踏破できた。ただ残念なのは司馬凌海を生んだ佐渡島上陸を果たせなかったことである。佐渡を諦めざるを得なかったのは、一つにはレンタカーを予約できなかったためである。震災の影響で観光客は激減していると聞いていた。といっても直前までレンタカーを確保していなかったのは、いくらなんでも失敗であった。もう一つの理由は、天候である。今回の旅程のうち、半分は雨であった。しかも一時暴風警報が発せられるほどの荒天であった。ただでさえ船に弱い私には致命的であった。心残りではあるが、佐渡は次の機会までお預けである。
(正圓寺)
正圓寺
大龍和尚碑
大龍和尚は、文政三年(1820)の生まれ。大浦村西福寺の住職を務めたが、戊辰戦争後、当時正圓寺の隠居(監寺)として小出戦争の会津藩戦死者を葬り、戒名を与え墓碑を建てた。その大龍和尚を顕彰した碑が正圓寺入り口近くに建てられている。
(大塚墓地)
戊辰戦死者墓
昭和四年(1929)に地元有志の手によって建立されたもの。
戦死者十名の戒名が刻まれた墓標
傍らの墓には、戦死者十名の戒名が刻まれている。この墓は、大龍和尚が小出島における会津藩戦死者を自費でもって火葬し、戒名を授けて建てたものである。
鉄應義膽居士
もう一つの墓は、氏名不詳であるが、市内青島で自刃し、林泉寺より戒名を受けて建てられた戦死者のものである。
(小出陣屋跡)
小出島は、会津藩の飛び領地であった。会津藩は陣屋に代官を置いて統治していた。
慶応四年(1868)四月、戊辰戦争で小出島は激戦地となったが、会津藩士十四名が戦死している。
懐旧碑
戊辰戦役懐旧碑は、篆額子爵松平容大、撰文南摩綱紀。懐旧碑の隣の小さな墓石に戦死者十四名の名前が刻まれている。
望月武四郎歌碑
津々於登耳(つつおとに)
鳴久ね(なくね)
や春免し(やすめし) 告希よ(つげよ)
本と々幾須(ほととぎす) 毛能々夫ふの(もののふの)
会津尓(あいづに) 死を
輪形月
輪形月(わがたつき)とは、満月のことで「望月」を暗示したものという。
会津藩士望月武四郎は、負傷して民家に匿われていたが、戦後残党狩りが始まると、領民に迷惑が及ぶと判断して家を出て自刃した。望月武四郎の辞世が刻まれた石碑は、昭和六十三年(1988)、戊辰戦争百二十年を記念して建てられた。
(諏訪神社)
諏訪神社周辺も、戊辰戦争で激戦となった。本殿内の柱には弾痕が残っているというが、扉が閉ざされており内部は確認できず。境内には平成八年(1996)に建てられた「会津藩烈士之碑」がある。
諏訪神社
会津藩烈士之碑
(林昌寺)
林昌寺
大銀杏
諏訪神社の近くにある林昌寺の大銀杏には戊辰戦争の銃弾が残っていると言われていたが、樹勢の衰えが顕著になり倒れる恐れが高くなったため、平成二十年(2008)に伐採された。その際、言い伝え通り銃弾が発見された。現在は太い幹の部分が残されているのみである。
なんと、わたしも黄金週間は新潟を回っておりました。
しかも回ったエリアが思いっきり被っていてびっくりです(笑)
先週の土日は、新潟でサッカーの試合があり、そのついでに十日町~長岡の前回未発見のところや、写真がボケていたところを中心にまわりました。
予定していた新潟市内は突然の雨のため、見附や三条は時間切れのため到達できませんでしたが・・・
ご無沙汰しております。
ひょっとすると、新潟のどこかですれ違ったかもしれませんね。
このGW、本当をいえば福島県の浜通りを回りたかったのですが、震災もあって新潟方面に変更しました。今夏には栃木県北部を狙っていますが、こちらも地震の影響が心配です。
GWの新潟は雨に泣かされましたね。村上市の海岸沿いを走ったときは、暴風雨に恐怖を感じるほどでした。旅行はやはり晴天に限ります。