史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

永平寺

2017-06-17 16:14:14 | 福井県
(火薬局跡)
 先日、坂本龍馬の新たな書簡が発見され、そこに三岡八郎(由利公正)のことが記されていたことから、由利公正のことが俄かに注目を集めている。ついこの間もNHKの番組で由利公正のことを取り上げていて、その中であまり有名とはいえない、火薬局が紹介されていた。今回の福井行では、是非この火薬局跡を訪ねたいと思っていた。


火薬局跡

 永平寺といえば何といっても道元によって開かれた大本山永平寺が有名であるが、個人的には中学生のとき野球県大会の決勝で永平寺中学に敗れたことが記憶に残っている。その後、我が中学校の野球部は優勝の常連校となったが、そのきっかけとなったのがこの時の決勝進出であった。もっとも私は補欠の補欠で、決勝進出には一つも貢献はしていないのだが…。

 松岡神明一丁目の九頭竜川に近い場所に福井藩の火薬局跡を示す石碑が建っている。ちょっと分かりにくい場所である。
ペリーの来航をきっかけにアメリカと和親条約が結ばれると、三岡八郎(のちの由利公正)は藩の命を受けて大銃および火薬の製造掛を命じられた。安政四年(1857)には兵料掛を命じられ、橋本左内らと明道館にておおいに文武の道を講ずるとともに火薬局を松岡芝原用水の開口部近くに設ける計画を進めた。ところが、安政四年(1857)四月二十七日、火薬局が自然爆発を起し、多くの同士を失うことになった。翌年三月にも再度爆発し、火薬局は半焼した。三岡八郎は火薬製造を復興することを建議したが、終に許されることはなかった。この石碑は安政六年(1859)に建てられたものである。

(安泰寺)
 松岡神明町三丁目に位置する安泰寺には、福井藩士佐々木権六の墓がある。もともと佐々木権六の墓は東京青山霊園にあったが、平成二十一年(2009)に故郷の菩提寺である安泰寺に移設改葬されたものである。


安泰寺


佐々木長淳(権六)墓

 佐々木権六、諱は長淳。天保元年(1830)に福井藩士佐々木長恭の長男に生まれた。嘉永六年(1853)より砲術修業と大砲製造調査のため、江戸へ行き、帰って大小銃弾薬御製造掛となり、ついでその頭取となって明道館でその研究を命じられた。福井藩で初めて二本檣の西洋型帆船「一番丸」を造り、藩主松平茂昭もこれに乗った。慶応三年(1867)には柳本直太郎とともにアメリカに留学し、ジョンソン大統領に謁し工場を視察した。帰朝後、兵器、書籍の購入、軍規法の輸入に尽力した。明治二年(1869)、製造局用事となり三インチ砲を造った。翌年、新政府に出仕して工部省勧工寮(のち勧業寮)に勤め、明治九年(1876)にはイタリアの養蚕公会所出張を命じられた。翌年には内務省に転じ、上州新町駅紡績所、青山御所養蚕御用掛などを歴任し、養蚕業の発展に尽くした。明治二十八年(1895)官を辞し、大正五年(1916)死去。年八十七。

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