史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

大野 Ⅵ

2017-06-17 15:50:23 | 福井県
(託縁寺)


憲寛院九鱗居士
(廣田憲寛の墓)

 前回見逃してしまった託縁寺の廣田憲寛の墓を掃苔。ついでに観光協会を訪ねて、二年前にお世話になった観光ボランティアの皆さんにご挨拶だけでもと思ったが、例によって観光協会がオープンする遥かに早い時間だったため、当然ながら扉は閉じられたままで、人影もなかった。

(宝慶寺)
 元治元年(1864)十二月七日、本木村を出発し、宝慶寺峠へ向かった。天気は晴れであったが、五尺ほどの積雪があった。宝慶寺峠は標高約六百四十メートル。峠下の宝慶寺の名に由来するものである。


宝慶寺


橋本家住宅

 宝慶寺の門前村の庄屋橋本家の住宅が、宝慶寺の前に移築保存されている。国の重要文化財に指定されているが、茅葺の屋根が半分崩れ落ちており、修復の手が急がれる。この建物は江戸時代中期十八世紀前半頃の建築とされる。
 天狗党は、宝慶寺とその近在に分宿し、そろって碑田川の谷に沿って池田宿へ進んだ。

(杉本家)


杉本家

 天狗党の先触れは、木本の杉本弥三右衛門家に行き「今晩御宿下されたく、何の御構えも要りませんから、只風呂さえあればよろしく、是非お願いしたい」と申し入れをし、了解を得た。元治元年(1864)十二月六日夜、浪士隊は本木村に到着し、大庄屋杉本家を本陣とし、約五十戸あったという全戸に分宿した。厳寒の雪の中、野営を重ねて来た浪士一行は、ここで入浴できたことで大いに生気を取り戻したことであろう。
 この時、大野藩は町年寄の布川(ぬのかわ)源兵衛を使者とし杉本家に派遣した。「大野城下に入らず、宝慶寺峠を越えて、池田から今庄を抜ける道が最短距離なので、この道を通って欲しい」と繰り返し説得した。浪士隊は布川の誠意に納得し、宝慶寺峠越えを選んだ。

 本木の集落で元庄屋の杉本家を探していると、一人の老人がと出会った。「庄屋の杉本家を探している」と事情を話すと、「それはうちだよ」と教えてくれた。庄屋の家らしく、周囲を堀で囲った重厚な住宅である。


(殉難碑)


大野一揆殉難碑

 本木の集落から大野市街に向かう途中に蝋燭の炎を象った殉難碑がある。これは明治六年(1873)、三月に起こった大野一揆(みのむし騒動)で処刑された農民の殉難の碑である。
 明治初年の神仏分離、廃仏運動に反発した、仏教信仰が盛んな大野の民衆は不安にさらされた。これを見た友兼村専福寺の金森顕順は、上据(かみしらがみ)村最勝寺の柵専乗と相談して、地元豪農竹尾五右衛門らと語らい、門徒を集めて連判状に血判をさせた。このことが役人に探知され、顕順と五右衛門が捕えられた。これを知った三千余の農民は、「南無阿弥陀仏」のむしろ旗を揚げて、本町の敦賀県庁出張所に押し寄せた。役人や大商人への日頃の不平不満が爆発して、三日間に及ぶ大暴動となった。最終的に、政府の策略により、実効性のない空手形同然の書付を渡され、騒動は終息した。政府は直ちに兵力をもって暴動を主導した農民を捕え、牢屋に押し込めて厳しい吟味を行った。金森顕順、柵専乗、竹尾五右衛門、高橋太右衛門、末吉町桶屋治助の斬刑、穴田與八郎は絞罪となり、同年四月四日に刑が執行された。ほかに農民十八名が懲役十年から一年の刑を申し渡された。この石碑は、明治十四年(1881)に建立されたもので、「南無阿弥陀仏」と記されたその両脇に、顕順、専乗、竹尾五右衛門らの法名が刻まれている。




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