史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

金沢八景

2010年01月15日 | 神奈川県
(六浦藩陣屋跡)


六浦藩陣屋跡

 京急金沢八景駅を降りて、南西のガードをくぐって反対側に出た辺りが、旧武州金沢藩(または六浦藩)の陣屋跡に相当する。付近は住宅が密集し見る影もないが、遺構として陣屋入口の石段が残っている。
 武州金沢藩は、横浜市域における唯一の大名家であった。藩主米倉氏は甲斐武田氏の一族で、武田氏滅亡後は徳川氏に仕えた。徳川幕府成立後は足柄上郡や大住郡堀山下村に小さな所領を与えられていたが、米倉昌尹のとき将軍綱吉の信任を得、元禄九年(1696)一万石を与えられ晴れて譜代大名に列した。四代藩主米倉忠仰(ただすけ)のとき、それまでの下野皆川から六浦へ陣屋を移し、以後、廃藩置県まで存続することになる。
 幕末の藩主は米倉昌言。幕末期には、長州戦争にも従軍し、沿岸の警備や横須賀造船所の警護を命じられた。その影響もあって時勢にも敏感であったが、戊辰戦争では藩論が定まらず、対処に苦しみながらも最終的には勤王に傾き、新政府に恭順した。

(野島公園)


旧伊藤博文金沢別邸

 野島公園内に、伊藤博文が明治三十一年(1898)に建てた別邸が復元再建されている。かつて金沢周辺には、東京近郊の海浜別荘地として伊藤博文初め、松方正義、井上馨らが別荘を設けていた。その後、大磯、葉山などにその地位を譲るが、伊藤博文別邸は数少ない遺構として当時の姿を伝えている。老朽化が著しかったため、一旦解体された後、平成二十一年(2009)に竣工した。外観は当時のまま茅葺寄棟屋根の建物であるが、中に入るとそのまま住んでも良いくらいである。ボランティアの女性が館内を案内してくれる。一生懸命解説してくれるのは有り難いが、西大井の本邸跡、明治記念館、大磯と小田原の滄浪閣、山口県大和町の生家跡、萩市の旧宅跡まで巡ってきた史跡訪問家を満足させる話は聞けなかった。


伊藤博文漢詩金屏風

 広い客間には、伊藤博文が自筆した漢文を記した金屏風(複製)が置かれている。

(明治憲法起草の地)


憲法草創之處碑

 野島公園と金沢八景駅の間の州崎町に「憲法草創之處碑」がある。書は伯爵金子堅太郎。
 この碑は、伊藤博文の金沢別邸前にあったがこの地に移設されたものである。
 明治二十年(1887)、伊藤博文、伊東巳代治、金子堅太郎、井上毅らは、この石碑のある場所から百㍍ほど金沢八景駅寄りにあった料亭東屋にて、明治憲法の草案を起草した。伊藤博文は夏島にあった別荘からここまで通ったという。ところが、ある夜、東屋の伊東巳代治の部屋に盗賊が入り、機密書類が盗まれるという事件が発生した。そのため、作業は伊藤の夏島の別荘に移って続けられることになった。


明治憲法起草の地

 旅館東屋のあった場所にも、横浜国際観光協会と横浜市教育委員会の建てた説明板が添えられている。

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1 コメント

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Unknown (吉盛と申します)
2021-08-04 22:18:26
ここ行った事があります。陣屋あとに旧藩主家がお住まいで老夫人が大変親しく応対して下さいました。戦後の旧藩主家がご苦労を重ねられたお話しをお伺い致しましたこと懐かしく思い出されました。二十年近くなると思います。
駅近くに草屋根の住宅が数棟あったことを思い出しました。今思えば武家屋敷だったかも。写真を写さなかった事が悔やまれます。
興味深い記事ありがとうございます。

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