史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

六本木 Ⅲ

2016-12-10 09:52:06 | 東京都
(外交史料館)


外交史料館別館

 外交史料館で特別展示「幕末へのいざない」を開催していると聞いたので、ちょうど平日ながら労働組合の行事で会社の公休日となっていた十一月の初旬、足を運んでみた(港区麻布台1‐5‐3)。入場は無料だが、日曜日・祝日は閉館というのがサラリーマンにはネックである。
 外交史料館は、黒い鉄格子で囲まれ、どう見ても訪問客を歓迎していない雰囲気である。鉄格子越しに中を覗いていると、いかにも「不審者発見」という様子で、警備員が出てきて物越し柔らかく「何か御用ですか」と訊かれた。特別展示を見たいと伝えると、「それは別館でやっています」と教えてくれる。別館は本館の七十メートルほど西側にある。

 入口をはいると早速、吉田茂胸像が出迎えてくれる。


吉田茂胸像

 吉田茂の妻は、牧野伸顕の娘、つまり大久保利通は義祖父となる。因みに妻の母(牧野伸顕の妻)は三島通庸の次女。また養家吉田家の養父庫三は旧福井藩士で、ジャーディン・マセソン商会で横浜支店長を務めた実業家で、その妻は佐藤一斎の孫にあたる。広く知られるように首相を務めた麻生太郎は吉田茂の孫である。まさに華麗なる家系である。


嘉永六年ペリー艦隊の図(左)と日米和親条約批准書

 常設展示の最初は、ペリー艦隊の図(「続通信全覧」より)。「続通信全覧」は、幕府が編集した外交文書で、それを明治初期に外務省が改めて編集した者である。


幕末の旅券

 こちらは常設展示。曲芸師亀吉に発行された我が国最初の旅券(パスポート)である。現代のパスポートのように、写真が添付されているわけではないので「眼小さき方」などと人相が記されている。

 外務省が発足したのは明治二年(1869)七月のことで、初代外務大臣にあたる外務卿は澤宣嘉である。常設展示では、歴代の外務大臣でも名を後世に残した榎本武揚、陸奥宗光、小村寿太郎、幣原喜重郎らの肖像写真を掲示している。


初代外務卿澤宣嘉


千島樺太交換条約批准書

 明治八年(1875)、榎本武揚がロシアとの間で結んだ千島樺太交換条約の批准書である。右下のピンク色の丸は、批准書に押された国璽である。


咸臨丸風波の絵図

 特別展示は、密航を企てた吉田松陰の尋問書や開国を受けて麻布や高輪の寺院に置かれた公使館、パリ万博に参加した徳川昭武使節団など興味深い展示が目白押しである。中でも最も眼を引いたのが、文久二年(1862)一月に幕府が外国奉行水野忠徳らを小笠原島に派遣した際の記録である。当時、小笠原島には欧米人が移住し、日本の属領であることが危うくなっていた。咸臨丸で小笠原に渡った水野忠徳一行は、「小笠原島新墾の碑」を立てるなどして、我が国の領土であることを明確にした。余り知られていない史実ながら、幕末の幕府外交のヒットの一つといって良いだろう。


小笠原島付近に生息する魚介類の絵図

 「続通信全覧」には独自の生態系をもつ小笠原島付近の魚介類の極彩色の絵図が残されている。
 展示室はちょっとした会議室程度の広さで、さほど大きなものではない。三十分もあれば、十分全ての展示を見ることができるが、充実した展示内容に時が経つのも忘れるくらいであった。平日ということもあり、見学者は私一人しかいなかったが、多くの人に見てもらいたい内容であった。

(麻布小学校)


旧紀州徳川家屋敷跡

 麻布小学校の敷地は、明治六年(1873)から大正末期まで、紀州徳川家が屋敷を置いた場所である(港区麻布台1‐5‐15)。紀州徳川家では、この場所に我が国初の私立図書館である「南葵文庫」を邸内に設け、育英奨学団体「南葵育英会」を設立、学生寮「第一進修学舎」を建設した。さらに第十六代当主徳川頼貞は、我が国最初の本格的音楽ホールとなる「南葵楽堂」や音楽関係資料を集積した「南葵音楽文庫」を開設した。しかし、大正十二年(1923)の関東大震災により大打撃を受け、これらの施設の多くはその役割を終えた。なお、南葵文庫の蔵書は、現在徳川慶喜が揮毫した扁額とともに東京大学総合図書館に収蔵されているそうである。また南葵楽堂に据えられていたパイプオルガンは、旧東京音楽学校奏楽堂に設置され、保存と活用が図られているという。

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