史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

白河 Ⅱ

2012年12月01日 | 福島県
(白河の関)


史跡 白河関跡

 東北地方は、「白河以北一山百文」と蔑まれたが、白河が古来よりみちのくの関門とされたのは、この地に白河の関があったためである。関が置かれたのは、大化の改新以後の七~八世紀と言われているが、実は関の位置は長らく不明であった。江戸時代後期、時の白河藩主松平定信(楽翁)の考証により、この地が白河関であると断定された。


古關蹟の碑

 寛政十二年(1800)、「古關蹟の碑」が建立された。


空堀と土塁

 昭和三十四年(1959)から三十八年(1963)にかけて発掘調査が行われ、空堀や土塁、柵列などの遺構が発見されている。

(観音寺)
 前日の天気予報で北関東から東北地方が晴れることを確認すると、翌日に備えて早く床に就いた。起床は四時前。顔を洗って、家を出ると外はまだ暗かった。この日の目的地は白河である。三年前に出張のついでに白河市街を三時間だけ探索したが、それ以来である。戊辰戦争でも最激戦地となった場所だけあって、各所にその戦跡が残っている。効率よく回りたい。


観音寺


大垣藩三名墓(酒井元之丞)

 最初の目的地は観音寺である。本殿の裏手に広い墓地が広がるが、戊辰戦争関係者の墓は、比較的古い墓域に点在している。大垣藩の合葬墓を探し当てるのに、広い墓地を一時間も歩き回ることになった。
 大垣藩の酒井元之丞は築造兵一番組銃隊長。第一次の白河攻撃のあった五月二十六日、白坂で戦死した。墓には、酒井のほか、部下である二名(瀬古與作と松岡惣兵衛)の藩士も合葬されている。


岡勝熊墓

 大垣藩の合葬墓の前に、岡勝熊と浅野外祐という二人の長州藩士の墓がある。
 岡勝熊は、装条銃足軽。第一大隊所属。五月一日、白河小田倉で戦死。二十一歳。


浅野外祐墓

 同じく長州藩の浅野外祐も装条銃足軽。第一大隊嚮導見習。八月二十九日、会津若松城下にて戦死。二十一歳。


大平八郎墓

 大平八郎は、地元白河白坂の人。当時は農民と伝えられる。白河攻防戦に際して、大平の案内で新政府軍は夜のうちに敵陣に近づき、奇襲に成功することができた。五月一日の戦闘で新政府軍が勝利を収めた要因の一つに大平の道案内があったのは間違いない。維新後、大平は新政府から感状を受け、人馬継立取締役に任じられるなど、非常に羽振りが良かった。しかも、自分の戦功を盛んに吹聴したので、そのことが斗南の地で極貧生活を送っていた会津人の耳に入った。明治三年(1870)七月、会津藩士田辺軍次は大平を殺害するために斗南を出て白河に至り、大平を呼び出して斬殺した。大平を殺した田辺軍次も、その場で自害した。

(白坂)


戊辰戦役旧大垣藩士酒井元之丞戦死之跡

 大垣藩酒井元之丞の戦死地に石碑が残されている。酒井は先頭に立って指揮していたが、手に持っていた軍旗が銃撃目標となり、胸部に銃弾を受け陣没した。二十五歳の若さであった。

 石碑には、酒井の妹のかつが詠んだ歌が刻まれている。

 進み出て績を尽くしたこの神の
 いまは偲びてたつる石ふみ

(南湖公園)


南湖

 白河市南郊の南湖は、当時の白河藩主松平定信によって享和元年(1801)公園として整備された。通常の大名庭園とは異なり、四民に開放されたため、我が国最初の公園と言われる。


松平定信像

 松平定信は、老中として寛政の改革を推進したことで有名である。御三家の田安宗武の七男に生まれ、天明三年(1783)に白河藩主松平定邦の養子となって襲封した。天明の飢饉のときの藩政が評価されて、老中に抜擢されることになった。藩政では「白河風土記」を編纂させた。多くの著述を残し、全国の学者との交流も多かった。


南湖神社

 南湖神社は、大正十一年(1922)、松平定信を祀るために開かれたもので、境内には定信ゆかりの茶室羅月庵も移設されている。


棚倉藩鎮英碑

 南湖神社に隣接して翠楽園という日本庭園が作られているが(入場料310円)、そこから更に西に行くと、湖畔に面して棚倉藩鎮英碑が建てられている。この石碑は、戊辰戦争による棚倉藩の戦死者の霊を祀るもので、明治十七年(1884)に平田文左衛門という人物が敬義会を結成して、建立したものである。

(大竹家墓地)


官軍大竹繁三郎之墓

 夏梨の集落にある大竹家墓地に、大竹繁三郎の墓がある。大竹繁三郎は、夏梨出身の農夫であるが、馬を連れて戻る途中、新政府軍に密偵と間違えられて惨殺された。新政府軍では、このことを深く詫びて、墓を設けて官軍として葬ったと言われる。墓の側面を見ると、「官軍 大竹繁三郎之墓」と彫られている。

(八竜神)


戊辰役 戦死之碑

 藤沢山と呼ばれるこの場所には、大きな斎場があって、私が自動車を停めるとさっそく葬儀場の係の方が、「お葬式ですか」と近寄ってきた。「いえ、戊辰戦争の…」と来訪目的を説明しようとすると、「あ、どうぞ」と放っておかれた。
 そこから直ぐの場所に戊辰役戊辰戦死碑が建立されている。この石碑は、藤沢地区のほか、土武塚、八竜神に散葬されていた同盟軍の戦死者四十二人を合葬し、その霊を慰めるために地元有志の手によって大正元年(1912)十月に建立されたものである。

(関辺油久保)


戦死墓

 関辺油久保集落の一角に、戊辰戦争の戦死者を葬った「戦死墓」が置かれている。誰が葬られているのか不明。朱色の彼岸花が印象的であった。

(宝積院)


宝積院

 小田川の宝積院には、古山孫四良、丹羽新吾、佐々木廣之助という三人の墓がある。


古山孫四良(奥) 丹羽新吾宗方(中) 佐々木廣之助(手前) 墓

古山孫四良は、仙台藩士。墓碑によれば享年四十九。幕末維新全殉難者名鑑では古山幸之進とあるのが、同人か。
丹羽新吾は会津藩士らしいが、こちらも幕末維新全殉難者名鑑に名前を見つけられず。墓碑によれば、七月十五日に戦死。
佐々木廣之助は、仙台藩士。浜田郡治隊に属した足軽で、六月十二日、白河で戦死。

(観音堂)


観音堂


戊辰戦死供養塔

 宝積院から数百メートルにある観音堂の前に同盟軍の戦死者を祀る供養塔が建てられている。

(大桜岡)


戦死供養塔

 大桜岡にも同盟軍戦死者の供養塔がある。

(白井掛無縁塚)


無縁塚

 戊辰戦争で亡くなった無縁の両軍戦死者や白河領民を合葬したものである。左側面に「慶應戊辰年五月戦死墓」とあるが、何名、どこに所属した者かは不明。

(清光寺)


清光寺


増淵勝蔵墓

 清光寺の本堂裏山に宇都宮藩兵糧方増淵勝蔵の墓がある。増淵勝蔵は十七歳で軍夫として従軍し、慶應四年(1868)五月二十日、釜子から小峰城(白河城)に向かう途中、細倉にて同盟軍の攻撃を受けて戦死した。死亡日は、ほかに七月二十六日、八月七日説もある。享年二十歳とも。

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