史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

新京極 Ⅲ

2016-10-29 21:02:00 | 京都府
(誓願寺)


誓願寺


法眼東洋山脇先生墓

 誓願寺墓地の入口門前には、「山脇東洋解剖碑所在墓地」という石碑が建っている。墓所には、山脇東洋の墓がある。
 山脇東洋(1706~62)は、江戸中期の漢方医。宝暦四年(1754)、所司代の許可を得て、京都六角獄舎の敷地で罪人の首のない屍体を解剖させ、これを木版手彩色図として収めた「蔵志」二巻を発行した。我が国最初の解剖図譜である。


勧修寺歴代合葬墓所

 「明治維新人名辞典」によれば、誓願寺に勧修寺顕彰、勧修寺経理らの墓があるというので、誓願寺墓地を歩いたが、勧修寺歴代合葬墓所を発見しただけであった。この墓に合葬されているのだろうか。
 勧修寺顕彰は、文化十一年(1814)の生まれ。文政七年(1824)元服、昇殿を許され、天保元年(1830)、侍従となった。ついで皇后権大進を兼ね、新清和門院判官代を経て、同十三年(1842)、右少弁、同十四年(1843)蔵人となり、累進して安政四年(1857)、左中弁に任じられた。安政五年(1858)条約勅許問題が起きた際、外交措置を幕府に委任する勅許案の改訂を要請して、八十八卿列参に加わった。翌年、正四位上に叙せられた。文久元年(1861)、年四十八で没。
 勧修寺経理(つねおさ)は、文政十一年(1828)の生まれで、顕彰の実弟。天保十年(1839)叙爵。文久三年(1863)右少弁、元治元年(1864)、蔵人に任補された。これより先、安政五年(1858)、幕府が日米通商条約の勅許を奏請したとき、外交措置を幕府に委任する勅裁案の改変を求めて、八十八卿列参に加わり、ついで元治元年(1864)、征長問題が起こると、毛利家の執奏家として長州との連絡に当たったが、同年七月の禁門の変後、蟄居を命じられた。慶応四年(1868)正月、漸く赦免、同年閏四月、右中弁に任じられ、従四位下に叙された。明治四年(1871)、年四十四で没。


正二位前權大納言藤原實久卿之墓

 橋本実久の墓である。橋本実久は寛政二年(1790)、権中納言橋本実誠の子に生まれた。寛政十年(1798)、稚児として後桜町上皇の御所に出仕、享和二年(1802)元服、昇殿を許され、文化二年(1805)侍従となり、右近衛権少将、同中将を経て、天保二年(1831)、参議に進み、同十四年(1843)、正二位に叙せられ、嘉永元年(1848)、権大納言となった。この間、後桜町上皇、光格上皇の院別当を兼ね、天保十三年(1842)より安政四年(1857)まで議奏を勤仕して、朝廷の要路にあった。娘経子は仁孝天皇の後宮に入り、典侍として和宮を生み、実久はその外祖父として和宮の養育に奉仕した。安政四年(1857)、年六十八で没。
 誓願寺墓地には、橋本経子の遺髪塚があるというので、隈なく歩いて探したが、出会うことはできなかった。いずれ再挑戦したい。


前典侍正五位藤原經子遺髪塚

 誓願寺墓地二度目の挑戦である。住み込みの墓守の方に橋本経子(つねこ)の遺髪墓を探している旨と告げたが、ご存知なかった。
「この墓地には橋本家の墓がざっと三十くらいあります。」
とのことで、今回も遺髪墓を探し当てるのは難航が予想されたが、玉垣で囲われた墓を目当てに探すと、今度はあっさりと出会うことができた。

 橋本経子は、文政九年(1826)の生まれ。父は、権大納言橋本実久、母は家女中島氏。天保十年(1839)十二月、仁孝天皇の後宮に仕えて、典侍となる。弘化元年(1844)、皇子胤宮(翌年、薨去)を産み、同三年五月、皇女和宮を生んだ。同年正月、天皇の崩御により宮中を退出、薙髪して勧行院と号し、専ら和宮の養育にあたり、幕府の奏請による降嫁の議が強要された際、和宮の意向を代弁し、最も庇護に努めた。文久元年(1861)十月、和宮の入輿に随って江戸に下向。引き続き側近に仕えた。慶応元年(1865)八月、病篤きに及び、皇女養育の功をもって正五位下に叙された。年四十にて没。

(西導寺)


西導寺

 西導寺に土佐藩士安岡官馬の墓を訪ねたが、人気がなく、そのまま進入するのは憚られたので、出直すことにした。

 西導寺も再訪。近くに土佐藩邸があった関係で、墓地には土佐藩士の墓が多い。無縁墓地にも土佐藩士の墓が山積されている。


土州 安岡官馬墓

 安岡勘馬(官馬)は、天保十四年(1843)の生まれ。剛毅の人で武芸に優れた。文久三年(1863)、足軽となり、上京して河原町の藩邸にいたが、八一八の政変、七卿落ちに痛憤し、郷里の両親に遺書を残し、藩邸を脱出して三田尻に至った。中国・四国を往来して諸国の志士と交わり、各藩の動静を同志に報じていた。元治元年(1864)三月、京都に帰り、大仏の辺りに潜伏したが、幕吏の厳戒と時勢に痛憤して、十日の夜、松原通り加茂河原で自刃した。年二十二。たまたま父助市が上京して六波羅にあり、勘右は密かに訪れようとしたが、嫌疑が父に及ぶことを恐れ、自刃の前日、微行して父の宿所の窓下にたたずみ、暇乞いして立ち去ったという。助市はこれを憐れみ、遺骸を西導寺に葬った。


無縁墓石

 無縁墓地に積み上げられている墓石は、ほとんどが土佐藩士のものである。


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