史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

丸岡 Ⅱ

2017-06-17 16:07:22 | 福井県
(高岳寺)


高岳寺

 前回、丸岡訪問時は、寒さと強風と小雨のために気力が萎えてしまい、断念した有馬家菩提寺高岳寺を真っ先に訪問する。高校サッカーの強豪校丸岡高校のすぐ近くである。


有馬家歴代墓所

 本堂に向かって左手奥に有馬家歴代の五輪塔が生前と並んでいる。幕末までは日向時代の直純、康純や初代丸岡藩主清純、三代孝純の墓のみであったが、明治四十三年(1910)に延岡から殉死者十三人の墓を、大正五年(1916)には東京上野の本覚院から江戸で亡くなった藩主の墓を高岳寺に移した。藩主の墓の前には、奥方の壮麗な墓も置かれている。福井大震災(昭和二十三年(1948))によって倒壊したが、その後復旧されて今日に至っている。


有馬徳純公の墓


有馬温純公の墓

 六代藩主有馬徳純は、高田藩主榊原政敦の四男に生まれ、文化三年(1820)、有馬藩主の養子となった。文化十三年(1830)、養父誉純の隠居に伴い家督を継いだ。天保八年(1837)、三十四歳で死去。あとを婿養子の温純が継いだ。

 七代藩主温純は、五代藩主有馬誉純の子、戸田純祐の子。養父徳純の死去により家督を継いだ。安政二年(1855)、二十七歳の若さで死去。温純のあとは、播磨山崎藩から養子に入った道純が継いだ。道純は、寺社奉行や奏者番、若年寄、老中といった重職を歴任し、幕末の幕府を支えた。なお、道純の墓は谷中霊園にある。


和翁先生之墓(有馬徳太郎の墓)

 有馬徳太郎(和翁)は、丸岡藩藩儒。城下霞町に日新塾を開き、漢学を教授した。明治八年(1875)没。

(台雲寺)


台雲寺


合屋文仲の墓

 台雲寺には、蓑笠庵梨一という江戸中期に活躍した高名な俳人の墓がある。蓑笠庵梨一は、縁あって地方役人として坂井郡下兵庫村(現・坂井町下兵庫)の代官として着任し、その後、丸岡藩主有馬誉純の賓客として招かれ、儒官となった。老いて私塾蓑笠塾を開き多くの門人に学問を教えた。特に晩年には芭蕉の研究に没頭した。
 同じ墓域に丸岡藩医合屋文仲の墓がある。合屋文仲は、維新後、成美堂という私塾を開いた。明治三十八年(1905)、七十四歳で没。

(丸岡城不明門)
 丸岡町野中山王の集落の中に、丸岡城の不明門が移設されている。


丸岡城不明門

(舟寄霊苑)


邨野先生之碑

 舟寄町の舟寄霊園に邨野良郷の墓がある。邨野良郷は、医師、教育者。長崎に留学して医術を学び、三十歳の頃、舟寄村に移住して開業した。医業の傍ら、邨野塾を開き、近隣の子弟を教えた。明治十八年(1885)、七十歳にて死去。

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