(大野城)
大野城
前回の大野訪問から二年が経過した。三度目の大野である。これまで麓から見上げただけだった大野城にもチャレンジした。柳廼神社脇から登山道をゆっくり歩いて二十分程度で亀山山頂(標高二四九メートル)に行き着く。
土井利忠像
山頂近くに大野土井家七代目藩主土井利忠の銅像が立っている。利忠は在位四十四年(文政元年(1818)~文久二年(1862))。藩政改革に取り組み、財政再建を成し遂げたほか、藩校明倫館や洋学館の開設、西洋医学・砲術の採用、藩店大野屋の展開、蝦夷地探検と開拓、藩船大野丸の建造など、次々と事業に着手した。全国的な知名度は低いが、幕末を代表する名君の一人である。
大野城からの眺望
シバザクラ祭り
山頂からは大野市街を一望することがきる。反対側は、対照的に建物のない、田園風景である。ちょうど「シバザクラまつり」の真っ最中で、水田の畦道は鮮やかなピンク色で覆われていた。思わず声を挙げたくなるほどの美しさであった。
登山道途中には大野丸の碑がある。大野丸は安政年間に大野藩が建造した洋式帆船で、蝦夷地開拓と交易のため蝦夷地との間を幾度も往復した。しかし、元治元年(1864)八月、根室沖で座礁沈没。その直前に蝦夷地開拓を主導した内山隆佐も世を去っており、これ以降、大野藩の蝦夷地開拓の試みは頓挫した。
大野丸の碑
(柳廼神社)
柳廼(やなぎのやしろ)神社は、明治十五年(1882)の創建。土井利忠を祀る。境内に利忠を支えた三人の家老の顕彰碑が建立されている。
柳廼神社
内山良休翁の碑
内山良休は土井利忠を支えた家老の一人。経済に明るく、地場産業奨励に尽力し、藩店大野屋を大阪等に三十店余開き、直接販売を通して利益を上げ、藩財政の立て直しを図った。維新後は、良休社を設立して士族の生活を支えた。私財を投じて大野‐福井間の道路の改修を実現。
貫斎先生(内山隆佐)の碑
内山隆佐は蝦夷地開拓、大野丸建造に尽力した。
中村矩倫翁の碑
中村矩倫も土井利忠を支えた家老の一人。天保十三年(1842)の藩政改革の際には、政務の一切を委任され、士風刷新に尽力し、藩の規律が矯正された。
(結ステーション多目的広場駐車場)
広瀬病院の目の前、結ステーション多目的広場駐車場が大野藩の開いた洋学館跡である。この場所には大野藩の招いた高名な洋学者伊藤慎蔵の顕彰碑、伊藤の名を慕って藩内外から集まった人々の名前を記録した石碑、それに洋学館跡を示す石碑、以上三つの石碑が並べ建てられている。
伊藤慎蔵先生顕彰碑
伊藤慎蔵は、文政八年(1825)、長州萩に医師の子に生まれた。嘉永二年(1849)、緒方洪庵の適塾に入り、のちに塾頭を務めた。この頃、慎蔵と名乗った。安政三年(1856)、土井利忠の招きで大野藩洋学館教授として来藩。教育とともに我が国初の気象学翻訳書「颱風新話」など蘭学書訳出など多数を残した。文久元年(1861)、大野藩を辞去し、大阪ついで名塩(現・兵庫県西宮市)で蘭学塾を開いた。明治二年(1870)、大阪開成所にて数学教授、明治四年(1872)には文部大助教を拝命。明治六年(1874)辞職。明治十三年(1880)、東京で病没。年五十五歳。
幕末の大野藩に遊学した人々
この碑には、安政二年(1855)、伊藤慎蔵が着任して以降、大野藩に遊学した人々の名前が刻まれている。有名なところでは、美濃赤坂の所郁太郎や緒方洪庵の二男三男、緒方平三、緒方四郎らの名前が見える。出身地でいえば、大野藩周辺の福井、丸岡、鯖江、府中、勝山、大聖寺に留まらず、遠く肥前や豊前中津、讃岐高松からの留学生もいた。
大野藩洋学館跡の碑
土井利忠は、安政三年(1856)、この地に蘭学所を開設し、伊藤慎蔵に蘭学指導を委嘱した。藩士の西川貫蔵、山崎譲らが伊藤を補助した。蘭学所は、のちに洋学館と改称し、原書や辞書も充実していた。大野藩の蘭学は、その砲術訓練や蝦夷地開拓と合わせて全国に知られ、当城下に留学した者は、二十余藩から数十名に及んだ。
(武家屋敷旧内山家)
洋学館跡から歩いて数分、有終西小学校の向い側に内山家の屋敷が、ほぼ当時のまま復元展示されている。
武家屋敷旧内山家
母屋
内山良休肖像
内山家は、衣裳蔵、米蔵、味噌蔵を備え、母屋と離れが渡り廊下で繋がれた広壮な住宅である。内山良休と隆佐兄弟を偲ぶために、平成五年(1993)に解体復元したものである。母屋は明治十五年(1882)頃に建築されたもので、現在は瓦葺きであるが、元は板葺きだったことが復元の段階で判明したそうである。また離れは、大正期に建設された数寄屋風書院である。
大野城
前回の大野訪問から二年が経過した。三度目の大野である。これまで麓から見上げただけだった大野城にもチャレンジした。柳廼神社脇から登山道をゆっくり歩いて二十分程度で亀山山頂(標高二四九メートル)に行き着く。
土井利忠像
山頂近くに大野土井家七代目藩主土井利忠の銅像が立っている。利忠は在位四十四年(文政元年(1818)~文久二年(1862))。藩政改革に取り組み、財政再建を成し遂げたほか、藩校明倫館や洋学館の開設、西洋医学・砲術の採用、藩店大野屋の展開、蝦夷地探検と開拓、藩船大野丸の建造など、次々と事業に着手した。全国的な知名度は低いが、幕末を代表する名君の一人である。
大野城からの眺望
シバザクラ祭り
山頂からは大野市街を一望することがきる。反対側は、対照的に建物のない、田園風景である。ちょうど「シバザクラまつり」の真っ最中で、水田の畦道は鮮やかなピンク色で覆われていた。思わず声を挙げたくなるほどの美しさであった。
登山道途中には大野丸の碑がある。大野丸は安政年間に大野藩が建造した洋式帆船で、蝦夷地開拓と交易のため蝦夷地との間を幾度も往復した。しかし、元治元年(1864)八月、根室沖で座礁沈没。その直前に蝦夷地開拓を主導した内山隆佐も世を去っており、これ以降、大野藩の蝦夷地開拓の試みは頓挫した。
大野丸の碑
(柳廼神社)
柳廼(やなぎのやしろ)神社は、明治十五年(1882)の創建。土井利忠を祀る。境内に利忠を支えた三人の家老の顕彰碑が建立されている。
柳廼神社
内山良休翁の碑
内山良休は土井利忠を支えた家老の一人。経済に明るく、地場産業奨励に尽力し、藩店大野屋を大阪等に三十店余開き、直接販売を通して利益を上げ、藩財政の立て直しを図った。維新後は、良休社を設立して士族の生活を支えた。私財を投じて大野‐福井間の道路の改修を実現。
貫斎先生(内山隆佐)の碑
内山隆佐は蝦夷地開拓、大野丸建造に尽力した。
中村矩倫翁の碑
中村矩倫も土井利忠を支えた家老の一人。天保十三年(1842)の藩政改革の際には、政務の一切を委任され、士風刷新に尽力し、藩の規律が矯正された。
(結ステーション多目的広場駐車場)
広瀬病院の目の前、結ステーション多目的広場駐車場が大野藩の開いた洋学館跡である。この場所には大野藩の招いた高名な洋学者伊藤慎蔵の顕彰碑、伊藤の名を慕って藩内外から集まった人々の名前を記録した石碑、それに洋学館跡を示す石碑、以上三つの石碑が並べ建てられている。
伊藤慎蔵先生顕彰碑
伊藤慎蔵は、文政八年(1825)、長州萩に医師の子に生まれた。嘉永二年(1849)、緒方洪庵の適塾に入り、のちに塾頭を務めた。この頃、慎蔵と名乗った。安政三年(1856)、土井利忠の招きで大野藩洋学館教授として来藩。教育とともに我が国初の気象学翻訳書「颱風新話」など蘭学書訳出など多数を残した。文久元年(1861)、大野藩を辞去し、大阪ついで名塩(現・兵庫県西宮市)で蘭学塾を開いた。明治二年(1870)、大阪開成所にて数学教授、明治四年(1872)には文部大助教を拝命。明治六年(1874)辞職。明治十三年(1880)、東京で病没。年五十五歳。
幕末の大野藩に遊学した人々
この碑には、安政二年(1855)、伊藤慎蔵が着任して以降、大野藩に遊学した人々の名前が刻まれている。有名なところでは、美濃赤坂の所郁太郎や緒方洪庵の二男三男、緒方平三、緒方四郎らの名前が見える。出身地でいえば、大野藩周辺の福井、丸岡、鯖江、府中、勝山、大聖寺に留まらず、遠く肥前や豊前中津、讃岐高松からの留学生もいた。
大野藩洋学館跡の碑
土井利忠は、安政三年(1856)、この地に蘭学所を開設し、伊藤慎蔵に蘭学指導を委嘱した。藩士の西川貫蔵、山崎譲らが伊藤を補助した。蘭学所は、のちに洋学館と改称し、原書や辞書も充実していた。大野藩の蘭学は、その砲術訓練や蝦夷地開拓と合わせて全国に知られ、当城下に留学した者は、二十余藩から数十名に及んだ。
(武家屋敷旧内山家)
洋学館跡から歩いて数分、有終西小学校の向い側に内山家の屋敷が、ほぼ当時のまま復元展示されている。
武家屋敷旧内山家
母屋
内山良休肖像
内山家は、衣裳蔵、米蔵、味噌蔵を備え、母屋と離れが渡り廊下で繋がれた広壮な住宅である。内山良休と隆佐兄弟を偲ぶために、平成五年(1993)に解体復元したものである。母屋は明治十五年(1882)頃に建築されたもので、現在は瓦葺きであるが、元は板葺きだったことが復元の段階で判明したそうである。また離れは、大正期に建設された数寄屋風書院である。