史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

福岡 中央 Ⅱ

2016年06月17日 | 福岡県
(東学問所藩校修猷館跡)
 福岡藩では、天明四年(1784)、藩の子弟教育のために二つの学問所を設けた。藩校東学問所(修猷館)と西学問所(甘棠館)である。そのうち一つの修悠館の跡が中央区赤坂一丁目にある。修猷館では、貝原益軒の流れを汲む竹田定良を館主に迎え、多くの人材を教育した。寛政十年(1798)西学問所が火災に遭って廃校となったため、その子弟をも収容し、その後は唯一の藩校として武芸なども教えた。


東学問所藩校修猷館跡

(福岡市西公園)
 西公園入口脇に平野國臣像がある。


平野國臣銅像

 平野國臣は文政十一年(1828)、福岡城下にて、福岡藩士平野吉三郎の二男に生まれた。一時、藩職を務めたが、安政二年(1855)、長崎出役時に異国船を目の当たりにして狂信的な日本主義者となり、半生を国事に捧げた。平野は同時に文人、国学者であり、総髪に烏帽子、直垂を着て、一昔前の太刀を佩いて町中を歩くなど、奇抜な格好を好んだほか、和歌や笛を嗜む風流人でもあった。尊王攘夷思想に傾倒して。安政五年(1858)脱藩し、京都で公卿や在京薩摩藩士と交流を深めるが、幕府の勤王家弾圧に危険を察し、筑後の真木和泉らと善後策を論じた。西郷隆盛が京都の勤王僧月照を連れて筑前から薩摩に入る際に、月照を庇護する役を担い、西郷らと南下。薩摩藩で追放されて筑前に戻り、危険を冒して再び上京した。万延元年(1860)より西国の尊攘派の結集を図るために、筑前、筑後、肥後、薩摩などを遊説して回り、倒幕計画を練った。寺田屋事変に連座して京都での挙兵に失敗し、福岡で獄に投じられた。ほどなく赦免されたが、尊王攘夷に対する平野の情熱は衰えることなく、文久三年(1863)、公卿澤宣嘉を擁して但馬生野で挙兵した。これが失敗すると捕らわれて京都六角獄舎に投獄された。元治元年(1864)、禁門の変の混乱のさなかに同志とともに斬首された。三十七歳。

 國臣の銅像の解説板には、國臣の漢詩の辞世が記されているが、私の知っている(自宅のトイレに飾っている)辞世と一文字異なっている。解説の横にさらに解説が加えられており、「従来、・・・成敗在天・・・とされてきたが、平成二十三年の冬、発見された平野家資料によると、「成否在天」と書き記されており、右解説板に追補する。」とある。マニアックな説明が嬉しい。


加藤司書公銅像(銅像の文字が消されている)

 戦前、ここには加藤司書の銅像があったが、戦時中の金属回収にため供出され、その後は台座だけが残った。台座には加藤司書の歌が刻まれており、現在は歌碑となっている。

 加藤司書は、天保元年(1830)、福岡藩士加藤徳裕の子として生まれ、幼くして家督を継ぎ、中老となった。その後、参政に任じられて藩の軍事を担当した。元治元年(1864)の禁門の変で隊長となったが、藩兵を率いて上洛のさなかに第一次長州征伐で派兵が中止となり、幕命に従って休戦に尽くした。翌年、三条実美ら五卿を大宰府に招くにあたり、藩論を尊王に導き、その保護に注力した。その直後に家老となり、福岡藩における勤王運動の中心人物として、薩摩藩の西郷隆盛と謀って征長軍の解兵を説くなど、その後の薩長連合の布石を打った。しかし、佐幕派が藩政を握るに至り、司書ら筑前勤王党に弾圧が加えられ、家老の職を退いた。慶応元年(1865)十月、藩主より切腹を命じられ、博多天福寺にて自刃した。


加藤司書歌碑

 皇御国(すめらみくに)の武士(もののふ)は いかなる事をか務むべき
 只(ただ)身にもてる赤心(まごころ)を 君と親とに尽すまで


加藤司書銅像(古写真)

(正光寺)


正光寺

 この写真に写っている黒い軽自動車は、今回六日間使用したレンタカーである。福岡でも、柳川でも結構細い路地を通行することになったので、軽自動車で良かったとつくづく思う。


中村円太・用六 合祀墓

 中村円太は天保六年(1835)、福岡藩士中村兵助良英の二男に生まれた。長兄は中村用六。幼少より文学を好み、安政三年(1856)、藩校修猷館の訓導に補せられたが、安政六年(1859)、脱藩して江戸に赴き、菅兵輔と変名して大橋訥庵門下に入り、かつ天下の志士と交わりを結び、尊王攘夷論の影響を受けた。万延元年(1860)、藩地へ帰り、月形洗蔵らと藩主黒田長溥の参勤交代反対の建言を成したが受け入れられず、かえって脱藩の罪により謹慎を命じられようとしたので、その年の秋、同志浅香市作、江上栄之進らと薩摩へ逃れ、有志に謀った。のち帰藩して脱藩の罪を自訴して命を待った。翌文久元年(1861)五月、小呂島に流された。その後流刑を解かれ、文久三年(1863)七月、三たび脱藩して長州へ走り、野唯人と変名して京に出て、朝廷より学習院出仕を命じられた。同年八月十八日の政変後、下関に至り、ここで世子長知の東上を知り、それに扈従することを請うたが許されず、ひそかに尾行して入京したところを藩吏に捕えられ、福岡桝木屋の獄に投ぜられたが、福岡藩同志筑紫衛、森勤作、伊丹真一郎らに救出され、長州へ行き、ここで三条実美の執事となった。時に弟の恒次郎も兄と行動をともにして、長州に走った。翌元治元年(1864)、長州藩兵に従って東上したが、七月禁門の変に敗退し、長州藩内は俗論派の台頭するところとなり、よって高杉晋作の脱出を助けて博多に帰り、また月形洗蔵らと五卿を大宰府に迎えることに奔走した。しかし、脱藩の罪を犯した身の上に危難が及ぶことは必然であったので、同志は博多退去を忠告したが、円太はこれを聞かず、ついに同志の怒りを買い、奈良屋町報光寺にて自刃した。

 長兄中村用六は文政八年(1825)の生まれ。万延元年(1860)弟の円太とともに「封事一冊」を藩主へ建白したが、藩庁に容れられず、禁固に処された。文久元年(1860)、許されて鞍手郡に退居した。維新の後、慶応四年(1868)三月、登用されて民政、財政、軍事等に携わり、明治三年(1870)には功をもって采地百石を賜り、公用人を兼ね、ついで福岡藩権大参事に任じ、司計局副総督を摂し、廃藩置県により職を辞した。明治六年(1873)六月、福岡に竹槍一揆が起こり、用六は鎮撫総宰として鎮撫に当たった。一揆が県庁に乱入するに至って、責を負って切腹した。年四十九。

(吉祥寺)
 吉祥寺には尾崎惣左衛門の墓がある。「尾嵜家累代之墓」の合葬。


吉祥寺


尾嵜家累代之墓

 尾崎惣左衛門は、文化九年(1812)の生まれ。幼少より藩校で儒学を学び、のち国学も修め、月形洗蔵らの「漢勤王」に対して「和勤王」と称された。安政二年(1855)、到来奉行、買物奉行などの諸歴を経て座敷奉行に進み、このとき江戸に祗役して造営のことを掌った。文久二年(1862)頃から藩政に関して種々建白するところがあり、元治元年(1864)、富国強兵の策を上書して藩主から賞され、周旋方に抜擢され、また諸藩を往来して志士と交わった。慶応元年(1865)、五卿の大宰府移居にも月形洗蔵らと周旋し、また対馬藩の勤王、佐幕の内訌に際して、対馬に渡ってその調停に尽力した。対馬より帰藩後、藩論が一変し、同年の乙丑の獄でその子逸蔵とともに捕えられて下獄。福岡正香寺にて自刃を命じられた。逸蔵もその日遠島に処された。

(平野神社)
 中央区今川一丁目の平野國臣の生誕地には、平野神社が創建されている。平野國臣がこの地に生まれたのは文政十一年(1828)のことで、父は福岡藩足軽で平野能栄といった。


平野神社


平野國臣誕生之地


平野國臣君追慕碑


歌碑

 本殿の横には、平野國臣が詠んだ、恐らく最も有名な和歌が記されている。

 我胸の 燃ゆる思ひにくらぶれば
 烟はうすし 桜島山

 平野神社の近く、鳥飼恵比寿神社がある。この社務所で平野國臣の冊子を無料配付しているので、是非立ち寄っていただきたい。


鳥飼恵比寿神社

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