整体セラピストの独り言  ウエダ心理整体塾のブログ

身体的心理技法による健康指導 京王線稲田堤徒歩5分 tel 044-944-5156 

同化の体験 5

2016-02-28 17:36:16 | 雑談
整体協会で新たに学んだことは「内観的身体技法」というものだった。

これは動法と内観の二つで構成される。

動法とは、日本文化、伝統芸能や武術および神道など宗教的行に伝わる所作(身のこなし)に見られる共通した特徴を捉え、その基本となる動作を行う。

例えば正座、中腰の姿勢、すり足など。

これにもいろいろな効能があるが、私には心が鍛えられる感じがした。集注力、忍耐力、心の平静などである。

内観とは、他者と同化しようとしたとき、同化したときに現れる感覚的な身体(内観的身体)
があることを経験し、この身体を集注によって変化させることを通じて私と他者の両者の身体を整える方法である。


この方法の説明の中で、感覚には二種類あると語る。

一つには識別の感覚。これは五感で捉えたことを脳の記憶によって、快不快、楽しいつまらない、綺麗汚い、良い悪いなど、分別していく感覚。

この感覚では他者は自分の外側に知覚され、他者が自分にとってどうかを判断認識するもので、これは意識の支配下にあり意識の内容に影響される。


もう一つが同化感覚。これは五感で捉えたことを脳を介さず身体で直に感じる。すると他者は自分の内側に知覚され、他者の感覚(身体で経験したこと)が自分に直接伝わってくる。

さらにまたこちらの身体で経験したことが他者に伝わる。これを感応というが、この感応の作用によって両者の身体が同時に整う。

ここに動法で経験した感覚が同化感応によって他者に伝わり、他者の心身に良い影響を与える効果がある。



そして私は、ファミリーコンステレーションで経験したことが、同化感応の作用であったと理解し、そこに人間関係と健康の問題を解決するヒントがあると掴んだ。






同化の体験 4

2016-02-24 16:31:44 | 雑談
話が前後するが、プロセスワークを体験するはるか前、瞑想を始めた頃に、整体協会に入会し活元運動も経験した。

私の場合、最初から動きが出て、とても開放的気分を味わった。身体の自発的動きということは知識では知っていたが、あの動きが起こる背景には心理的葛藤があると考えていた。

また愉気も面白かった。人の身体に触れたり手をかざしたりすることで身体に変化が起こることは衝撃的だった。

ただその頃の私は、はりきゅう、柔道整復の資格を持ち、手技療法もかなり学んでいたので、整体操法にはあまり関心がなかった。つまりは整体操法を治療術と捉えていたからだ。



つまりは世間一般の人々が認識しているのと同じで、野口整体を優れた手技療術と健康法と捉えていた。

まさか心の問題が整体や活元運動で解決するとは信じていなかった。

潜在意識教育というのも説かれていたが、具体的に何をしてくれるのか解らず、心理療法といえばまずカウンセリングで、加えて本人に瞑想の実践が必要と信じていたし、瞑想というと静坐して行うものと信じていた。

だから野口整体には興味はあったものの、その頃の私には瞑想や心理療法より劣るものと、低く見做していた。


人というのは愚かな生き物だと思う。信じていなければ、想定外で具体的な成果が現れない限り、そこに気づきや発見や可能性を見出すことはない。

今思えば、あの時誰かの整体指導を受けていたなら認識は変わり、人生も全く違う展開になっていたかもしれないが、後悔しても仕方がない。



そして前の記事に書いたような経緯を経て、「身体の可能性」を意識するようになり、再び野口整体を学ぶことになる。


同化の体験 3

2016-02-21 11:15:42 | 雑談
人と人、特に家族となった関係は、「集合的良心(愛)」によって結ばれている。

一方、個々にも意識「個人的良心(自我)」がある。

多くの人は自我で思考行動しており、愛で思考行動する人は稀である。

それは悪気というより、自然に身に付いた感覚なのだろうと思う。

なので、愛というものは、理屈の上では大切なものであることは解るが、愛によって行動することは感覚的に難しいのだ。


だから家族関係であっても、どうしても個々の意識がぶつかり合うことがしばしば起こり、それによって関係はいとも簡単に壊れてしまう。

だがそうなると、個々の意識に「しこり」が残る。

それを生きている間に解消し、関係を和解出来れば理想だが、そう出来ない関係が大半である。

すると子孫が先祖の「しこり」を無意識に抱え、先祖と似たような運命を辿ることになる。


そんな理屈はなかなか信じられないが、ファミリーコンステレーションは「布置」によって現象学的に明らかにする。

関係の構造(心理的な距離、位置、向き)を平面的空間に個々の場を設ける。

私の場、父の場、母の場、夫の場、子供の場、先祖の場…と。

ワークショップでは通常、代理人をたて、代理人に選ばれた人はその場(例えば父の代理人に選ばれた人はそこへ)に立つ。

代理人は通常、赤の他人であって当事者の事情も初めて聞くわけだし、その人の父親のことも知らない。



ところがその場に立つと、全く知らない、しかも既に他界している人の気持ちや感覚がなんとなく感じられるのである。

その感覚を頼りに、解決の指針を得てゆく。

私も幾度か代理人に選ばれ、それを体験した。


そしてあるとき、私の兄弟になるはずだったが母が流産して堕胎した人の場を設け、私がその場に立った。

私は彼?彼女?のことも知らないし会ったこともない、いわゆる水子の魂の場に。


そうしたら突然、寒気がし、閉塞感を感じ、とても寂しい気持ちになった。

これは空想ではない。

頭より先に、身体のほうでそう反応(感応)したのだ。



この体験から後の私の人生に、そして仕事に重要なインスピレーションを得ることになる。



同化の体験 2

2016-02-17 19:43:39 | 雑談
私がもし、暴君と化したなら身体は健康になるのかもしれない。しかしそれはさすがに理性が許さない。

そんな姿で健康になるというのはちょっとおかしい。

ならどうしたら良いのだろう?



その課題を抱えつつも、割と私はプロセスワークのエクササイズが楽しくなった。

特に人間関係の問題、集団の中の葛藤のワークは、私の最も関心のあるテーマだった。

私の心の奥に潜む「暴君」も実のところ、世を良くしようとした正義感が通じなかったため暴君と化したのだろう。

だからだろうか? 瞑想を始めた頃からテーマが内面のコンプレックスの解消から、社会への不満と疑問が沸き起こり、社会改革の意欲が芽生えた。

こうした流れの中で、扱うテーマは深刻であるものの、それについて行うセラピーは楽しくやろうというアメリカ調のワークは、遊びを知らない真面目人間の私にとって遊びとなった。

それを通じて、自分の視点から離れる、という経験が出来た。


しかしロールプレイは、まだこちらの空想の世界であり、こちらが相手に何を投影しているかを知るためのものであった。つまり相手そのものが何を感じ思っているのかは、推測の域を出ない。

でもそれは仕方ないことだろうと思っていたところに、友人の紹介で「ファミリーコンステレーション」を知ることになる。

そこで経験したことは、衝撃だった。



同化の体験 1

2016-02-16 18:11:28 | 雑談
私が瞑想を始めた理由は、持病のアトピーが治らないことから断食を行い、その後の食養生でいつも失敗し、あるはりきゅう師から「君は意志が弱い」と言われたこと。

それが心にグサっと来て、それから「自分はなぜ意志が弱いのか」と弱い意志になった源を知りたくて始めた。

加えて運動神経が鈍い、手先が不器用、勝負事は大概負ける、人間関係がうまくやれない、目上の権威や力を感じさせる人の前では引いてしまう気の弱さを克服したくて始めた。


瞑想というのは、まず集注があって、それが深まって瞑想という状態に至り、そして三昧と言われる境地にたどり着く。

誰もが、その三昧の境地にたどり着きたくて懸命に瞑想をする。

瞑想の方法にはいろいろあるが、その方法が信仰に基づこうと心理学に基づこうと脳科学に基づこうと、目指す境地は共通している。


三昧というのは、対象と一つになるということ。

神とひとつになる、自然とひとつになる、他者とひとつになる。

そしてしている行為とひとつになる。行為とひとつになるとは、「行為している私」という意識が消え失せ、無心に行為に専念していることを言う。

同化も同じ意味である。


しかしそれがなかなかなれない。

何年も、何十年と瞑想しても、三昧はおろか瞑想の状態にもたどり着けない。

あるいは瞑想の状態には入れても、日常に戻ると普段と何も変わらない。

相変わらず意志は弱く、人間関係は下手である。



そして私は、心理学のほうへ流れていった。

しかもアトピーや運動神経が鈍いという身体的問題を抱えていたことから、無意識と身体の関連性を説いているものを探した。

そして出会ったのがプロセス指向心理学(通称プロセスワーク)。

この心理学は、心理分析に基づきながらも、無意識に集注し感覚経験、イメージ体験を深め、対象を擬人化し、それになる、なりきってみるというアプローチをする。

それになる、なりきる、ということを「ロールプレイ(演技法)」によって経験する。


その学習を半年くらいして、あるセラピストに私の持病であるアトピーの背後に潜む心理を知りたいと申し出て、セラピーをしてもらった。

アトピーの状態、様相を細かく克明に、その感覚、そこから生ずる身体の動き、声、そして浮上するイメージを擬人化してゆく。

そこに現れたのは、すべてを自分の思い通りに従わせようと力ずくに振舞う、傍若無人な暴君の姿であった。

正直、ショックだったがともかく暴君になり、なりきった。


正直、とても気持ちよく爽快な気分であった。


この経験によって、私はアトピーと、アトピーを引き起こす身体と同化出来た感触を得た。

この経験の後、アトピーは良くなっていく流れに向かった。

しかしすぐに、それだけで良くなったわけではなかった。








気持ちを察せない人

2016-02-11 20:03:42 | 雑談
気持ちを語れないというのは、その人の性格や思考行動パターンにもよるが、その背景に関係性の問題もあるだろう。

人の気持ちを察することが出来ない人に対しては、正直失望し、彼に何の期待も失せ、とうてい気持ちを語る気にはならなくなる。


人の気持ちを察することが出来ない理由は、

相手のことに無関心。何を言っても「ふーん」とまるで関心を示してくれない相手に、それ以上会話する気も失せる。

相手のことに過干渉。念で気負される。相手がこちらを思い通りに動かそうとしているとき、その念に押されて何も言えない。


残念ながら世間の人間関係は、この二つのが多い気がする。

これじゃあ何も語れない。


そのような、乾いた関係性の中に置かれた身体はもはや機械となる。その機械が錆びつかないように、油をさす如く食べるものに気をつけ、適度な運動をしたとしても、気持ちが通じ合う関係の中に置かれた身体とは比べ物にならない。




人の気持ちを察するには、相手に関心を持ちながらも、思考行動生活に干渉することは控える。

そして相手が言葉にする前の、しぐさやちょっとした行動から察する。

例えば、いつも定時に出勤する人が遅刻したとき、そこに交通事情がなくて寝坊したというとき、その寝坊には「今日は休みたい」という気持ちがあるのかもしれない。

人と会う約束をしようとしたとき、「そのうち」とか「時間が空いたら」と明確な返事が返ってこないとき、あまり会いたくはないのかもしれない。

大体、日本人は「ノー」とは言えない性格だし、それで人を傷つけることは避けたいので、ノーの時ほど明確な返事はしない。

会話の時の表情、口調。話を聞き話してはいても、どこか無表情だったり笑顔のどこかに硬さが感じられる時は、あぁ合わせてくれているんだな、と察することも出来よう。


そして、相手の態度が気にいらなくとも許す、「受け止める」ことが肝要。

それが出来て、気持ちの奥に潜む、内面の心を察することが出来る。


ところでこれは、ちょっと経験したことがない人には理解不能な話になるが、他者の気持ちや内面を察するのに、他者と身体的に同化すると察しやすい。

もろちん、身体で同化するにも、無関心と過干渉では同化不能である。





そして、「受け止める」ことの先に「受け容れる」がある。

私は人生で一度だけ、無条件に受け容れられた、という経験をした。それも初対面なのに。

出会う人ほとんどは、どこか猜疑心、疑惑の念を抱いて接してくるのに、それがなかった。

これは受身の立場になると、感覚的によくわかる。

その時のうれしさ、身体が楽になる感覚は、どんな整体も比べ物にならない。



私も、出会う人すべての気持ちを受け止め、受け容れられるようになりたいと願う。




 

気持ちを語れない人

2016-02-09 12:05:03 | 雑談
これは男性に多い。

彼らは考えは語れる。でも気持ちは一言も語れない。

私も以前はそうだったか゛、セラピーの効果によって気持ちが少しずつ語れるようになった。


原因不明な身体の病気、なかなか良くならない慢性疾患を抱える人も、気持ちを語れていない。

それでも社会生活は送れる。

社会生活というのは、考えの関係、考えの共有であるから。

そこに個人の気持ちが介在すると、厄介となる。

でも本当はそんなことはないのだが、気持ちを語ることをお互い恐れているだけなのだ。

そしてそこを恐れているうちに、自分の正直な素直な気持ちが解らなくなっていく。



でもその身体の病は、自分の正直な気持ちを語れるようになると良くなっていく。

膠着した人間関係も、互いに気持ちを語ると、途端に氷解することもよくある。

社会的関係のもつれも、実は原因がそこにある場合も結構ある。




心を見つめるといっても、その前に普段の自分が考えで行動していて、誰にも一言も気持ちを語れていないなら、その心は余計に硬直していく。

身体感覚を磨いても、気持ちを語れないと返って感覚過敏となり、やたら神経質になったりする。


身体から心に到るというのは、言い換えると気持ちに素直に正直に行きましょうということです。




心の闇を見つめる 4

2016-02-01 16:15:08 | 雑談
そしてその時節、心の闇と向き合う時が訪れた時、それは身体で感じるものだが、その時は集注して心を見つめることをお勧めする。

私は「内観法」を経験した。

これは、幼児期から現在に至るまで、父に対して、母に対して、そして兄弟姉妹に対して、「していただいたこと」「して返したこと」「迷惑をかけたこと」の三点に絞って、幼児期から現在に至るまで時系列的に時期を区切って、これらを具体的なエピソードを思い起こしてゆく。加えて「嘘と盗み」についても同様、時系列的に調べてゆく。

これは心の闇を見つめることと、同じ意味を持つ。


一週間の合宿生活で、朝の5時から夜の9時まで、三度の食事と入浴の時間を除いて、只管、過去の出来事を思い出す。

一人一人、個室を与えられ、その部屋の隅に屏風を立ててそれに囲まれた中で座って内観する。食事も入浴も当然、一人一人別である。

その期間中、家族や友人との連絡もダメであるし(メールチェックやネットを見るのもダメ)、仕事の打ち合わせもダメなのである。



こうして、日常の流れを一度断ち切り、最低1週間、出来れば1ヶ月くらいはは仕事を休み、あるいは思い切って昨日までしていた仕事を辞め、今まで交際のあった人間関係も一時連絡を断ち、心の奥、無意識の世界へ分け入ってゆくことをお勧めする。

そしてその期間が明けた後の生活、人生に何の願いも期待も持たない。白紙としたほうが良い。なぜかというとそこに願いを抱いていれば、日常の流れを形式的には断っていても意識においては続いているから。



やはり心の闇と向き合うには、それなりの集注感と覚悟は必要となる。



ところで内観法は、日常においても毎日、その日ご縁のあった人に対して上記の三点から心を見つめることを勧められるが、私はしていない。

どうもそれをしてしまうと、また頭で心を監視するようで、伸び伸びと楽しく生きられないからだ。

その辺は個々の性格、感受性によって違うのかもしれないが、私が日々行ったほうが良いと勧めることは、前の記事に書いたとおりである。