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身が入るということ

2016-09-15 14:53:39 | 雑談
先日、ふと思い立って「スワイソウ体操」をした。

そのとき、何か違和感を感じた。今ひとつ「身が入らない」のである。

スワイソウは気功の初歩的な体操であり、はじめて行うわけでもない。

その体操について何らかの疑問もない。

それなのに、何か「乗らない」のである。


「この経験は何だろう?」と身体を感じながら思うに、気づいた。

この体操では、「自分が表現出来ない、自分の身体表現ではない」ということ。

その体操の「動作の型」を創造した感性や背景の文化と、私の感性と文化が合わない、ということなのだ。

私にとって身が入る、身体表現は、日本文化を背景とした、神道や仏教、能などに伝わる「所作」である。「なんでそんなことが愉しいの?」と問われても、そう感じるからとしか言いようがない。それなのに、中国映画には「見入ってしまう」のはなぜだろう???

ともかく、理屈ではないのだ。



そこで改めて、「身が入る」とはどういうことか、考えてみた。


ある体操、運動をして、「それに身が入る」ということは、それをしているとき、その感覚世界に入っていて何らかの表現をしている。でもそれはコトバの表現ではない、非言語的な表現であり、意識の深層からの表現なので、表現している本人にも無自覚なことが多い。

もちろんこれは運動に限らず、仕事にも言える。

ある仕事をしていてそれに身が入っているときは、そのとき自分の身体は何か表現をしている。


でも、身が入る仕事をしている人なんて数少なく、ほとんどの人は生活のために仕方なくしているのだから、他に条件の良い仕事が見つかればすぐにでも辞めたいという気持ちでしているのだから、働いていても充足感がない。




一方、身が入ることは仕事にはならないことも多い。

人の社会表現と身体表現には、かなりの次元の開きがある。だから身体表現をそのまま仕事に出来る人などごく稀である。(ダンサーだけで食べてゆける人などごくわずかな事実がそれを物語る。)

そのために、身が入ることをしない。

身が入ることをしていないと、身体が満たされない。

そのストレスが溜まって、身体症状(精神症状も含む)になることもある。


面白いことに、病気の症状というのは結構勢いがあって、病気をすることに身が入っているように傍から感じられる(もちろん当人はそんなつもりはないから否定するが)。

でもそうだとしたら、思い切って病気を経験する、病むことに身を入れると経過は早い。




でも身体表現は、自己表現の原点のように思う。その上に心理表現があり、その上に社会表現がある。

ところが人はみな、社会表現ばかりを意識して、そこで自分を評価するが、社会表現はできていても心理表現と身体表現をしていない人は、人間関係や身体に問題を抱えている人が多いように見受けられる。

一方、心理表現や身体表現は出来ていても、社会表現がうまく出来ない人は私の周辺には多数いる(その中に私も含まれる)。でも私にとってはこちらに属するほうに幸せを感じる。



身が入ることをしましょう。金にならずとも、誰も共感しなくとも。





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2 コメント

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身につける、というのは? (風)
2016-09-23 21:32:28
まるで解らない、馴染めないような
仕事、環境、技芸といったものを
苦労しながら時間をかけて身につける…
ということも世の人の営みの中には
多く有るのではないでしょうか?

そういう越境、橋を架けていく努力も
ヒトの世を豊かにしてきたのではなかろうか?
そのためのムリも多いのでしょうけれど…
Unknown (うえだ)
2016-09-24 16:09:34
身に付ける、というのは、身が入る先にある段階のように思います。

やってみて身が入らないことを身に付けるのは難しいし、自己矛盾を起こすでしょう。

オフタイムに身か入る行為をしていれば、つまらない仕事でも身を入れて取り組むこともでき、そこから何かが身についてくるように思います。

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