祇園祭の歴史
1100年前の貞観11年当時の国の数にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神(スサノオノミコトら)を迎えて災厄が取り除かれるよう祈ったことが始まりとされる。応仁の乱(1467-77年)で祭りは途絶えたが豪華な飾りをつけるようになったのは、桃山時代から江戸時代にかけての貿易 の影響で中国、ペルシャ、ヨーロッパなどの染織品などを競って用いるようにな ってから。「動く世界の博物館」と呼ばれ、目を見張る豪華で美しい山鉾として町内は40軒それぞれ山や鉾 を持った今日に至っている現在は市が財を支えている。
鉾(ほこ) 8基の鉾はだいたい同じ大きさ、形です(船鉾を除く)。 重さ約12トン、屋根までが約8メートル、鉾頭まで約24メートル、車輪は直径三メートル。
巡航当日、綱を引く「曳き子(ひきこ)」は30~40名、お囃子と車の操作の指揮者「音頭取り」2名(「辻回し(方向転換)」時は4名に)、鉾の屋根で真木(しんぎ)の揺れを加減し、電線などの障害物を見張る「屋根方」には4名、鉾には約40名の囃子方が乗るので、一基当たり、総勢80名で巡航します
北観音山、南観音山は曳山で形は鉾と同じ。 ただし、真木には松を立てる。 かき方は14~24名。 総勢30~40名で巡航します
14日14万人・15日宵々山24万・16日宵山38万人17日巡航13万人(京都府警発表)延べ85万人・・昨年より二割減定額寄付金の効果はどこかの党の他力本願で選挙は???
祇園祭が近づくと応仁の乱と蛤御門の変が悲しい歴史を想い熾させる。応仁の乱(1467年)・足利義政(8代)跡目争いが原因で、西陣(南朝)に山名宗全9万余、東陣(北朝)に細川勝元十万余の軍勢が向かいあつて11年間にわたる戦場と化した殆どの家屋・神社仏閣が破壊された、京の歴史的な最大の出来事だった
・・・・幕末には蛤御門の変・・・・・
京都御苑の周囲にある9門の一つ、天明の大火(1788年)の際に初めて開門されたこ とから「焼けて口開く蛤」にたとえられ「蛤御門」と呼ばれている今でも御門の梁にはめり 込んだ鉄弾が残っている、起きるべくして起きた戦い1864年(元治元年)、尊王攘夷派 の勢力を取り戻そうと、長州藩は兵を率いて京都に向かい、御所の近くの蛤御門[はまぐ りごもん]付近で戦いになり。これが禁門の変[きんもんのへん](蛤御門の変[はまぐりご もんのへん])。
幕府(会津.桑名藩)薩摩藩両者の戦闘があり,長州藩はこの戦いに敗れ、久坂玄瑞は鷹 司邸内で自刃した鷹司邸に火が放たれた。火は折からの北風にあおられて,南へ拡大。
晴天続きで乾燥状態にあった京都の町は,たちまち火の海となった。堀川と鴨川の間, 一条通と七条通の間の3分の2が焼き尽くされた。この戦いはわずか一日で終わった。
しかし戦火は三日に渡って燃え続けた。 この大火により実に42,000軒の家が焼失し,難民が河原などに溢れた。こうした事態は, 支配層内の対立や薩長の天下支配欲によって引き起こされたものである。一部の人間 の私利私欲が京都の街を火の海と化したという,悲しい歴史上の事実であった。
その被害は、町数118、家屋42000、土蔵1500、寺社塔頭480、武家屋敷600に及んだ。