京風

そぞら歩きの千二百年の都のはんなり歴史街道と四季行事等

祇園祭 山鉾巡行

2009-07-23 09:10:08 | お出かけ

祇園祭の歴史

1100年前の貞観11年当時の国の数にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神(スサノオノミコトら)を迎えて災厄が取り除かれるよう祈ったことが始まりとされる。応仁の乱(1467-77年)で祭りは途絶えたが豪華な飾りをつけるようになったのは、桃山時代から江戸時代にかけての貿易 の影響で中国、ペルシャ、ヨーロッパなどの染織品などを競って用いるようにな ってから。「動く世界の博物館」と呼ばれ、目を見張る豪華で美しい山鉾として町内は40軒それぞれ山や鉾 を持った今日に至っている現在は市が財を支えている。

鉾(ほこ) 8基の鉾はだいたい同じ大きさ、形です(船鉾を除く)。 重さ約12トン、屋根までが約8メートル、鉾頭まで約24メートル、車輪は直径三メートル。
巡航当日、綱を引く「曳き子(ひきこ)」は30~40名、お囃子と車の操作の指揮者「音頭取り」2名(「辻回し(方向転換)」時は4名に)、鉾の屋根で真木(しんぎ)の揺れを加減し、電線などの障害物を見張る「屋根方」には4名、鉾には約40名の囃子方が乗るので、一基当たり、総勢80名で巡航します

北観音山、南観音山は曳山で形は鉾と同じ。 ただし、真木には松を立てる。 かき方は14~24名。 総勢30~40名で巡航します

14日14万人・15日宵々山24万・16日宵山38万人17日巡航13万人(京都府警発表)延べ85万人・・昨年より二割減定額寄付金の効果はどこかの党の他力本願で選挙は???


祇園祭が近づくと応仁の乱と蛤御門の変が悲しい歴史を想い熾させる。応仁の乱(1467年)・足利義政(8代)跡目争いが原因で、西陣(南朝)に山名宗全9万余、東陣(北朝)に細川勝元十万余の軍勢が向かいあつて11年間にわたる戦場と化した殆どの家屋・神社仏閣が破壊された、京の歴史的な最大の出来事だった        
・・・・幕末には蛤御門の変・・・・・
京都御苑の周囲にある9門の一つ、天明の大火(1788年)の際に初めて開門されたこ とから「焼けて口開く蛤」にたとえられ「蛤御門」と呼ばれている今でも御門の梁にはめり 込んだ鉄弾が残っている、起きるべくして起きた戦い1864年(元治元年)、尊王攘夷派 の勢力を取り戻そうと、長州藩は兵を率いて京都に向かい、御所の近くの蛤御門[はまぐ りごもん]付近で戦いになり。これが禁門の変[きんもんのへん](蛤御門の変[はまぐりご もんのへん])。
幕府(会津.桑名藩)薩摩藩両者の戦闘があり,長州藩はこの戦いに敗れ、久坂玄瑞は鷹 司邸内で自刃した鷹司邸に火が放たれた。火は折からの北風にあおられて,南へ拡大。
晴天続きで乾燥状態にあった京都の町は,たちまち火の海となった。堀川と鴨川の間, 一条通と七条通の間の3分の2が焼き尽くされた。この戦いはわずか一日で終わった。
しかし戦火は三日に渡って燃え続けた。 この大火により実に42,000軒の家が焼失し,難民が河原などに溢れた。こうした事態は, 支配層内の対立や薩長の天下支配欲によって引き起こされたものである。一部の人間 の私利私欲が京都の街を火の海と化したという,悲しい歴史上の事実であった。
その被害は、町数118、家屋42000、土蔵1500、寺社塔頭480、武家屋敷600に及んだ。


「祇園祭」北観音山

2009-07-21 14:13:50 | お出かけ
北観音山

文和2年(1353)(南北朝)に創建され、現在後の祭の先頭を行く曳山です。この山

を有する六角町には、古くから三井家、松坂屋などの豪商も居住していたため、緻

密な刺繍の見送や水引、飾金具などの豪華な装飾品を数多く所有しています。破風

の彫刻は天保4年(1833)(江戸後期)片岡友輔作のもので、欄縁や柱の金具細工の

精巧さと相まって山を一層華麗なものに見せています「上り観音山」ともいわれ、

後の祭の山鉾巡行の先頭にたつ。山の上には楊柳観音像(ようりゅうかんのんぞ

う)と韋駄天立像(いだてんりつぞう)を安置する。もと舁山(かきやま)であっ

たものを後に曳山(ひきやま)に改め、その名残りとして真木には松の木が立てら

れている。松の左二の枝に尾長鳥をつけるのも珍しい。

この地は多くの文化人や豪商が住を構えた、たとえば平安時代・日本三筆の一人橘

逸勢 茶屋四郎次郎と徳川家康 三井八郎八郎兵衛(現在三井) 、鉾町(祇園祭り)

として勢力を誇り、豪商が郡拠している。さしもの秀吉も次の句が続かなかった。

「祇園祭」船鉾

2009-07-20 14:21:35 | お出かけ

船鉾

船鉾『日本書紀』に記される神功皇后(じんぐうこうごう)の新羅出船の説話が由来で,「出陣の船鉾」の別名を持つ。
これらは元和2年(1616)の銘がある古い作品。鹿島明神の長刀は,井上和泉守真海による寛文年間(1661-1672)作の逸品。
皇后がかぶる神面は,文安年間(1444-1448)の作品で,安産に奇瑞があると伝えられ,宮中でも尊敬されて明治天皇誕生の際には宮中へ参内した。
神功皇后がこの出船の際に応仁天皇を生んだことから,皇后の御神体は晒(さらし)をたくさん巻いて巡行し,巡行後にこれを安産祈願の御腹帯として授与する。
船形をした鉾の舳先(へさき)には金色の鷁(げき)と呼ばれる想像上の瑞鳥を飾り,艫(とも)には黒漆塗螺鈿(らでん)の飛龍文様の舵をつけ,船端には朱漆塗の高欄をめぐらし,船の上の唐破風入母屋造りの屋根に2本の旗竿を立て,そこに紅白の吹流しと長旒(ちょうりゅう)をはためかせる。応仁の乱以前より2基あり、この鉾は先祭(さきのまつり)のトリをつとめた『出陣の船鉾』といい、元治元年(1864)に焼けて現在焼山になっている後祭『凱旋船鉾』と区別している。

「祇園祭」月鉾

2009-07-19 08:06:16 | お出かけ
月鉾

動く美術館とも賞される豪華な月鉾は,元治元(1864)年の大火でも失ったのは真木

だけ。様々な古い装飾品が残されている。

筆頭は古鉾頭と天王の持つ櫂で,これらには「元亀四年(1573)六月吉日大錺屋勘右

衛門(おおかざりやかんうえもん)」の刻銘がある当代随一の名工の力を得た飾金

具類は圧巻です。

また、左甚五郎作と伝えられる彫刻、円山応挙の屋根裏絵画、天井の源氏五十四帖

扇面散図などその華麗さ豪華さは山鉾の中でも屈指のものです左甚五郎作といわれ

る破風の兎。その下で亀が兎を見ている彫刻

「祇園祭」鶏鉾

2009-07-18 09:51:01 | お出かけ

鶏鉾

中国の「諫鼓(かんこ)」の史話より取材、唐の堯(ぎょう)の時代は天下がよく治まっていたため訴訟用の太鼓(諫鼓)も使われることがなくなり、苔が生え鶏が巣を作ったという故事に由来する。

鉾頭の三角形の中の円盤は、鶏卵が諫鼓の中にあることを表しているといわれており、真木の中ほどにある天王座には航海の神である住吉明神を祀っている。

江戸中期を代表する画家、円山応挙やその流れをくむ四条派の下絵による水引により、その画風が堪能できる鉾です。同時に16世紀ベルギーで製作され、重要文化財の指定を受けた飾毛綴(かざりけつづれ)の秀作見送もあり、和洋の美の出会いが楽しめる鉾。また、幕末の人形ならではの大人びた風貌に鶏を飾った天冠を戴く稚児人形も必見です。

15日宵々山21万・16日宵山38万人38万人(午後11時、京都府警発表)

「祇園祭」菊水鉾

2009-07-17 12:33:21 | お出かけ
      
菊水鉾

戦後の昭和28年、88年ぶりに再興された豪華な「昭和の鉾」鉾の特徴である唐破風屋根は、綾傘鉾が江戸末に小型の鉾になった時、三十年間用いただけで他に例はない。この屋根形は平安時代に日本で生まれたが、異国風なので唐破風の名が付いた。

菊水鉾は祇園祭の中でも代表的な山鉾。江戸時代の禁門の変(1864年)で焼失町内の金剛能楽堂にある菊水井(きくすいい)という井戸にちなんで名付けられた。謡曲「枕慈童」に取材し,魏の文帝の勅使が薬水を訪ねて山に入った時に出会った,甘菊の葉に滴った露を飲んで七百年生き続けている少年,枕慈童(じどう)が稚児人形。能装束の舞姿が象られている。

元治元(1864)年に消失したが,1952年に88年ぶりに再興され,以降,年々装飾品を充実させている。
鉾頭に天向きの金色の透かし彫の十六菊をつけ,唐破風造りの屋根に海老名峰彰作の鳳凰の懸魚を飾り,軒下に翠簾(すいれん)を掲げているのが特徴。
町内に古くからあった井戸、菊水井にちなんで名付けられたといい、鉾の頂には金色の菊の花が水平についている。

天明の大火、さらに元治の禁門の変(蛤御門の変)で焼失、いったんは残った見送や前掛を山伏山に譲って消滅しかけたが、地元の繊維業者らの熱意で復活し、皆川月華を中心とした京都染織界の大家の作品で前掛や胴掛、水引、見送りを飾った。飛鶴図の前懸,唐獅子図の胴懸,孔雀図の見送は皆川月華作。

稚児人形は菊の露を飲んで長寿を保ったという枕慈童。屋根は他の鉾と異なり、曲線の優しい唐破風造りで、軒下に翠簾を掲げる

15日宵々山24万・16日宵山38万人38万人(午後11時、京都府警発表)

「祇園祭」函谷鉾

2009-07-16 15:48:25 | お出かけ
函谷鉾(かんこぼこ)

応仁の乱以前に起源をもち、くじ取らずの鉾として、鉾では長刀鉾に次いで第二番

目に巡行し鉾櫓、屋根の規模は大きい方である。

鉾の名は中国戦国時代(前四〇三~二二一)斉の孟嘗君(もうしょうくん)が函谷

関で家来に鶏の鳴声をまねさせて関門を開かせ難を逃れたと言う故事にちなんでつ

けられている。

インド緞通や中国緞通の胴掛、弘法大師筆になる見送、明治画壇の巨匠、今尾景年

筆の屋根裏絵画、近世の染織家、山鹿清華や皆川泰蔵の懸装品(けそうひん)重要

文化財の前掛は函谷鉾の至宝


京都「祇園祭」

2009-07-15 20:01:51 | お出かけ
長刀鉾

毎年必ず山鉾巡行の先頭を行く。現在,生稚児が乗る唯一の鉾でもある。他の鉾に

は稚児の代わりに人形が乗る。鉾先には,疫病邪悪を払う長刀をつけている。

長刀は,三条小鍛冶宗近が娘の病気の回復を祈願して八坂神社へ奉納したもので,

その後,鎌倉時代にある武人に愛用されたが,不思議が連発したため返納された。

大永二年(1522年)に疫病が流行ったとき,神託により長刀鉾町でこれを飾ったとこ

ろ疫病は治まった。

創建は,嘉吉元年(1441)説が有力。鉾の真木は20mあり,前懸と胴懸は18世紀の絨

毯。

祇園祭は7/1~/31の1ヶ月に渡って神事が執り行われますが7/14~/16の宵山、7/17の山鉾巡行を指す場合が多い祇園祭は全国六十余り其の中でも最たる歴史が在るのは京都「祇園祭」。 14日の人出は14万人でした。

十輪寺(なりひら寺)

2009-07-14 19:52:15 | お出かけ
京に初めて都を置かれた北にあり天台宗の古刹。寺は、嘉祥3年(850)文徳天皇のお后、染殿皇后 (藤原明子)の世継ぎ誕生を祈願のため、伝教大師作の延命地蔵菩薩(腹帯地蔵尊)を安置したのが 始まり、めでたく皇子(後の清和天皇)がお生まれになられたことから文徳天皇勅願所となり。
現在も子授や、安産を願う人の信仰を集めています
 
花山天皇が観音霊場巡拝の際に、背負ったという草分観音があり西国三十三所巡礼の始めに十輪寺 へ、最後に信州の善光寺に参拝し巡礼の礼をする。また、高野山金剛峯寺の奥の院、比叡山延暦寺 の根本中堂、奈良の東大寺の二月堂、大阪の四天王寺を番外霊場に含んでいる場合もあり、お礼参 りは善光寺を含め5か所の中から一つを選べばよいとする説もある。
 
通称 業平(なりひら)寺と云われ知られている在原業平の晩年の閑居跡と言われ、本堂の裏山に 業平の墓と、業平が設けた塩竃跡が今も存在する在原 業平(ありわらの なりひら(825年~880年)) は平安時代初期の歌人であり、六歌仙、三十六歌仙のひとり、また伊勢物語の主人公とみなされる。 平城天皇皇子の阿保親王第五王子。母伊都内親王は桓武天皇の皇女で、業平は桓武天皇の孫にあ たる、絶世の美男子にして平安のプレーボーイ。父・母とも天皇の子でありながら”薬子の変”で生ま れて間もなく在原の姓を与えられ、臣籍に降下する。
藤原摂関体制から疎外された 風流の道にその生涯を蕩尽したと云うべきであろう。その歌は華麗に して哀切な情感をたたえていた。
難波津(大阪)から運んできた海水を溜めたと伝えられる、境内の小高い丘に塩竃(しおかま)をも うけて二条后(藤原高子)への思いを煙にたくしたとも伝えられています。業平には、煙の如く消え 去った優雅な生活を惜しむ気持ちがあったのか!!
幽玄な雰囲気の漂う簡素なお寺其れも其のはず応仁の乱で焼失した後、新たに寛延3年に再建された
もので、屋根は鳳れん形という御輿を模った非常に珍しいもので、内部天井の彫刻も独特の意匠が施 され、文化財指定・・・・・・なりひら楓・なりひら桜・なりひら紅葉なんとなく風流
 
紀貫之の古今和歌集仮名序は彼の歌を評して

「情感があり過ぎて、それを表現する言葉が足らず、しぼんだ花が、色はあせたのに香りだけが残って いるようだ」と述べ、その香気と風趣にあふれる叙情性を讃えている。


十輪寺(なりひら寺)

2009-07-12 13:14:25 | 京都
在原 業平の墓石

伊勢物語は最後に彼の辞世の歌を記す

「ついに行く道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思わざりしを」

紀貫之の古今和歌集仮名序は彼の歌を評して
「情感があり過ぎて、それを表現する言葉が足らず、しぼんだ花が、色はあせたのに香りだけが残っているようだ」と述べ、その香気と風趣にあふれる叙情性を讃えている。

行平鍋(ゆきひらなべ)は在原業平の兄で 、 行平は須磨に身を置いていたとき、ひらったい形の鍋を使って、海女に塩焼きをさせたとの言い伝えから、その名前がついたと言われています



十輪寺

2009-07-09 20:49:34 | お出かけ

難波津(大阪)から運んできた海水を溜めたと伝えられる、境内の小高い丘に塩竃(しおかま)をもうけて

二条后(藤原高子)への思いを煙に鬱積(うっせき)した想いを抑えきれずにたくしたとも伝えられる、

業平には、煙の如く消え去った優雅な生活を惜しむ気持ちがあったのか!!

十輪寺(通称なりひら寺)

2009-07-07 20:22:40 | お出かけ
在原 業平(ありわらの なりひら(825年)(880年7月9日))は平安時代初期の歌

人であり、六歌仙、三十六歌仙のひとり、また伊勢物語の主人公とみなされる。

平城天皇皇子の阿保親王第五王子。母伊都内親王は桓武天皇の皇女で、業平は桓武

天皇の孫にあたるが、藤原摂関体制から疎外された 風流の道にその生涯を蕩尽した

と云うべきであろう。その歌は華麗にして哀切な情感をたたえていた。

    「さつき待つ花たちばなの香をかげば昔の人の袖の香ぞする」

光源氏(源氏物語)母の身分が低い光源氏とちがって父・母とも天皇の子であった平安

貴族を代表する色男である。

十輪寺(じゅうりんじ・通称なりひら寺)

2009-07-05 19:54:39 | 京都
通称 業平(なりひら)寺と云われ知られている平安のイケメン在原業平の晩年の閑

居跡、京に初めて都を置かれた天台宗の古刹現在も殆ど平日は訪れる人も無く寂びれ

た十輪寺(じゅうりんじ)だが!!

新熊野神社(いまくまのじんじゃ)

2009-07-04 15:16:52 | 京都
能の発祥地

世阿弥の「初心忘るべからず」は教訓として馴染みが深い又能の発祥地 で父子観阿弥、世阿弥日本最古の演劇論「今熊野勧進猿楽」と呼ばれ、見物していた室町幕府の第3代将軍義満が、その至芸に感激、2人を同朋衆に加え、父子をそれぞれ観阿弥、世阿弥と名乗らせた機縁の地であり能の発祥地。

時の将軍の援助をうけた世阿弥は、父の志をつぎ、後顧の憂いなく猿楽の芸術性を高めるため日夜、研究努力を重ね、これを今日の能楽に大成させた 『風姿花傳』日本最古の演劇論とも言える「初心忘るべからず」は教訓として馴染みが深い。
晩年思わぬ不幸が世阿弥を襲う。義持が没し足利義教の代になると弾圧が加えられるようになる跡取りの長男・元雅の突然の死。そして、新将軍義教は世阿弥を疎み、ついに1434年5月佐渡流罪が言って滅ぼされて世阿弥は八十一歳の天寿を全うしたともいわれ、その最期は定かではない。

新熊野神事猿楽」を演能、これが今日の能楽隆昌の機縁となった・・・・・・
王朝の昔から神事や後宴の法楽に演ぜられた猿楽は大和結崎座の大夫観阿弥とその子世阿弥によって今日傳統藝術として親しまれる能にまで仕上げられた その端緒となった時は今から六百余年前の應安七年場所はここ今熊野の社頭であった。

余談として
三重県上野市(現・伊賀市)の旧家から発見された上嶋家文書(江戸時代末期の写本)によると、伊賀、服部氏族(伊賀流忍者)の上嶋元成の三男が猿楽(能)者の観阿弥で、その母は楠木正成の姉妹であるという。正成の甥が観阿弥ということになる足利義教はそれを知って元雅の突然の死世阿弥を佐渡に島流しの定説る・・・・世阿弥の墓は一休が住職をした京都大徳寺真珠庵にある。

新熊野神社

2009-07-03 09:08:55 | 京都

朝夕公害(車・人)にも耐えクスノキは840年前、熊野から移植され後白河法皇が植えたものとされる


クスノキは840年前に、和歌山県の熊野から移植されたもので、後白河法皇が植えたものとされる市街地では珍しい大きさで、天然記念物されている後白河法皇が最後の院政を行った保元の乱、平治の乱という、鎌倉幕府がはじまる前の乱世の時代その後、南北朝時代の兵火に見舞われましたが、北朝の朝廷や足利将軍の配慮によってすぐに復興された。
清少納言(生没年未詳)は、その父清原元輔の邸宅が現在の境内地付近に有ったことから近くにおいて生まれ育てられた。
小野篁と伝わる平安京三大葬送地「鳥辺野」「蓮台野」「化野」古くから高貴な方々の葬地であり鳥戸野(山手)、いっぽうの鳥辺野は庶民の葬地でした(新熊野神社)。