京風

そぞら歩きの千二百年の都のはんなり歴史街道と四季行事等

車折神社(くるまざき)

2016-10-14 13:45:08 | お出かけ









祭神:清原頼業(きよはらよりなり)
 
清原頼業公は平安時代後期の漢学者・儒学者で、天武天皇の皇子、舎
人親王の御子孫にあたり、一族 の中には三十六歌仙の一人である清原
元輔、その娘、清少納言らの名も見られる。
頼業公は大外記の職を24年間も任め、和漢の学識と実務の手腕は当代
無比といわれ、晩年には九条 兼実から政治の諮問にあずかり、兼実から
「その才、神というべく尊ぶべし」と称えられた。
頼業公は平安時代末期の1189年(文治5年)に逝去され、清原家の領
地であった現在の社地に葬 られ、廟が設けられた。やがて頼業公の法名
「宝寿院殿」に因み、「宝寿院」という寺が営まれた。
この寺は室町時代に至り足利尊氏により嵐山に天龍寺が創建されると、
その末寺となった。
社名の由来は、後嵯峨天皇(1242~1246)が牛車に乗って大堰川へ船
遊びに行かれる際、社に気付か ず社の前を通ろうとしたとき石に当たり
動かなく
なり、勢いよく引いたところ左右から出ている引棒 (轅:ながえ)が折れたこ
とによる。天皇は、気付かなかった非礼を詫び、車折大明神の神号と正一
位がおくられた 。
 
頼業(よりなり)から「金が寄り、商売が成り」とも云われ商売繁盛の神様
と栄え後に境内に芸能神社が出来当時映画の町大映・松竹・東映の芸
能関係者が訪れた2000枚以上奉納されており、著名人の物も多くある。
芸能神社
天宇受売命(あめのうずめのみこと)(芸能・芸術の祖神)が岩戸の前で大
いに演舞され、天照大御神の御神慮をひたすらにお慰め申されたところ、
大御神は再び御出現になり、この世は再び光を取り戻した
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