江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

◆ ジャズのチエミ

2015年10月24日 | 江利チエミ(続編)

LP【クレイジー・リズム】
  昭和37年の作品です。

01 クレイジー・リズム(共演:カール・ジョーンズ)
02 マイ・ファニー・ヴァレンタイン(歌唱:カール・ジョーンズ)
03 ジャスト・スクイズ・ミー(共演:カール・ジョーンズ)
04 テンダリー
  https://www.youtube.com/watch?v=wo8ktN8t-mg
05 つむじ風のブルース(共演:カール・ジョーンズ)
06 ミッド・ナイト・サン・ウィル・ネヴァー・セット(歌唱:カール・ジョーンズ)
07 ラヴ・イズ・ヒアー・トゥー・ステイ
08 アイ・ゲット・ア・キック・アウト・オブ・ユー(共演:カール・ジョーンズ)
 
演奏:(2)(3)(4)(6)(7)(8)白木クインテット、沢田駿吾、(1)(5)原信夫とシャープス&フラッツ、(2)(6)渡辺貞夫


その時の録音風景
  


【ハウ・ハイ・ザ・ムーン】
 なんと昭和28年の作品です!
演奏:松本伸とニューパシフィックオーケストラ アレンジ:カール・ジョーンズ
  https://www.youtube.com/watch?v=QBzXT_MccxU


江利チエミさんはやはりJAZZがいい!!
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追記1:ニューパシフィック・オーケストラのことなど...

これまでに江利チエミさんと進駐軍の話は何回か掲載してきました。

江利チエミ30周年に大いに語る
 進駐軍のはなし
   進駐軍のはなしⅡ
     父君との二人三脚
       江利チエミが語る進駐軍の頃
江利チエミVS秋吉敏子  などなど...

右上の検索バーに「進駐軍」と入力し「このブログの中で」を選択いただくと他にも多くの記事が表示されます。

終戦から3日後の昭和20年8月18日、内務省は占領軍(=進駐軍)むけの「性的慰安施設」の設置を各地に指令します。(のちのRAA慰安所/翌年には性病の流行で閉鎖されますが、都内だけでも20ケ所、全国で7万人が(国策として)従事させられたと言われています。

この8月18日・・・マッカーサーが厚木に到着し、GHQが発足する8月28日の10日前...であります。
そしてその28日には占領軍の窓口となる「終戦連絡中央事務局」が発足します。
9~10月にかけてアメリカ軍が続々進駐すると、GHQの求めで銀座、新橋を中心に進駐軍用のクラブやキャバレー、ダンスホールが開かれていきました。

つまり、「慰安婦」と「歌舞音曲」は、「鬼畜」に対する「防波堤」だったわけです。

江利チエミさんの「ジャズの先輩」スイングの女王といわれた池真理子さんはこう語っています。(池さんは戦争中は安西愛子さんらと戦地や徴用工場での慰問で活躍したのち、戦後大蔵省(GHQ将校宿舎)のクラブに出演した。ジミー原田氏の元でジャズを学んだ彼女は英語で歌える数少ない歌手だった。)
『昨日まで軍歌、今日からジャズ・・・複雑な気持ちでしたね~。日本が勝ってたらジャズは禁止のままだったでしょうし。 ただモンペ脱いで指を鳴らして歌えるのが嬉しくって・・・」と。

また、戦時中はラジオ東京のアメリカ軍向け謀略放送をしていた戦前派ジャズメンの橋本淳氏も「スタンダード曲に『もう戦争はアメリカの負けだよ!早くやめたほうがいいよ』といった歌詞をつけて、ジャズをおおぴらにやれる唯一の機会だった」と。
この謀略放送の楽団の名前は「太平洋楽団」、メンバーは松本伸、渡辺良、柴田喬、森山久、後藤博、谷口又士・・・といった面々(敬称略)。
昭和20年10月、『ニュー・パシフィック・オーケストラ』と名前を替えて進駐軍クラブのステージに立ちます。
このとき「例のラジオ東京」のバンドと紹介され、拍手喝さいをあびたとか・・・
「あの放送は楽しく聴いていた」と云われたそうです。
どれだけ無謀な戦争だったのか・・・が、このエピソードからも偲ばれます。

少女歌手・エリーチエミはこういった時代背景に誕生します。
大人の様々な思惑・・・こういったものとまったく「無縁」に受け止められた・・・ということも「江利チエミ誕生」のひとつの大きな要因だったようにも思われます。
もちろんチエミさん自身は、将校さんたちに机をバンバン叩かれたりしたときに「敗戦国民としての惨めさ」を、ぐっと噛み締めていたのですが・・・

追記2:カール・ジョーンズ先生のこと...
  http://blog.goo.ne.jp/udebu60827/s/%A5%AB%A1%BC%A5%EB%A1%A6%A5%B8%A5%E7%A1%BC%A5%F3%A5%BA
          ↑
      こちらにいろいろと記事にしています。



<---NICE TO MEET YOU ...江利チエミさんのLP録音に立ち会うカール先生。これがチエミさんとカール先生の最後の仕事となりました。

2010年9月23日、90歳...ひとり残ったデルタ・リズム・ボーイズだったカール・ジョーンズさんも天に召されました。
最後まで後進の指導にあたっておられたとききます。

日本のあるレコード会社は版権もへったくれもなく、再販されたCDなどの編曲やカール先生歌唱分のギャランティが支払われなかったとか...そんなことに何も文句をいわずに「弟子ちゃん(チエミさん)」のCDが復刻されることを喜んでおられた...と風のうわさで聞きました。

カール・ジョーンズさん...
 チエミさんを妹のように可愛がってくださった「センセイ」です。
 そしてチエミさんを「デシちゃん」と呼んでおられたのだそうです。

このブログでの「デルタ・リズム・ボーイズ」さんの記事は...
 http://blog.goo.ne.jp/udebu60827/s/%A5%C7%A5%EB%A5%BF%A1%A6%A5%EA%A5%BA%A5%E0%A1%A6%A5%DC%A1%BC%A5%A4%A5%BA
    ↑
 こちらにまとめてあります。

 

江利チエミさんは、ある意味「ブラザーコンプレックス」...優しく懐が大きくて暖かいお兄さんへの思慕という部分を持っておられた...という想像もできると思います。

出逢いは、プロモーターによって「いわば仕組まれた」レッスン・ジョイント公演...ではありましたが、デルタ・リズム・ボーイズのカール・ジョーンズ氏とは生涯「先生」と「弟子」の間柄となりました。
もしもカールさんが日本に居てくれてたら...チエミさんはまた別の歌手人生があったのではないか?とも思えます。

以下の文面は30周年リサイタル時にカール先生が寄せたメッセージです。

Dear,Chiemi-chan.
It is my great and sincere pleasure to congradulate you on your musical anniversary.
It seems like only yesterday that I was in Japan working together with you.
Many good things have happened for me in Carifornia,
but You are still my number one “DESHI-CHAN”.
I hope we may enjoy many more musical moments together.

Always,
“SENSEI”



※最後の画像はこれまた私のお宝中のお宝...カール先生の直筆メッセージです。
2004年にこのブログのご縁でクリスマス・カードを頂戴したときのものです。

 






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