悪魔の囁き

少年時代の友達と楽しかった遊び。青春時代の苦い思い出。社会人になっての挫折。現代のどん底からはいあがる波乱万丈物語です。

若葉と青葉と紅葉と・・・

2017-05-10 10:11:38 | 日記
第二話【桜のない校門】


『おばさん 来年の三月に卒業するので、二月でアルバイトは辞めます』
と12月の暮れに伝えた。
『就職先は決まったの 』
『まだです』
『そうなの 困ったわねぇ~』
『三年勤めてなれているから直ぐ戦力なったのになぁ』と桑田常務外が残念がった。
年が明けると今まで会った事のない社長が出て来た。
『2人とも卒業したらうちで働かないか 』と言われた。
『うぅん~!?』
『この業界は必ず景気が良くなるよ』と念を押された。
『そうですかぁ~』半信半疑で聞いていた。
『返事は急がないから考えておいて』
『高岡どうしようか 』
『面白い仕事だけど新聞配達じゃなぁ~』
『何年か勤めるとトラックマンになれんじゃない』
『それまでは6階で新聞づくりだよ』
『見ていると細かい仕事だったなぁ~』
『文字を拾うのが大変みたいだったな』
この時、新聞を作っていたのは黒縁のメガネをかけた伊藤友康だったような気がするが記憶は定かでない。
『競馬に興味もなく、正社員に成っても風呂敷に包んだ新聞を配るのもカッコ悪いなぁ』
と思い断った。
『社長。やはり辞めます』
『二人共かい』
『そうです』
『残念だな』と諦めてくれた。
良く内容を聞いて、入社していたら当たる予想家として何処かのテレビにレギュラー出演していたかもしれない。
其れから一年後地方競馬から鳴り物入りでハイセイコーが中央競馬でダービーまで10連勝して全国まで競馬ブームが広がった。
有馬記念では、スタートから逃げたタニノチカラが5馬身以上引き離して、一着でゴール番を通過していた。
カメラは二着三着を争っているタケホープとハイセイコーのライバル戦を映していたと言う不思議なドラマだった。
マルゼンスキーなどは、騎手が落馬さえしなければ必ず一着でゴール板を通過した。
ゲートが開いたと同時にロケット発射して10馬身、20馬身、30馬身と引き離していった。
常に上がり三ハロン40秒台の馬なりで楽勝してしまうので、女房・娘を質屋に入れても単勝一本買して安心して観ていられる程、無敵の馬だった。
テンポイントとトウショウボーイの宿命の対決を盛り上げる為に、マルゼンスキーは有馬記念に出走する事は出来なかった。
外国産馬と言うことで出走するレースが限られていた為に、8戦無敗で引退した。
私の記憶では府中開催での珍レースがあった。
濃霧で何も見えない中でゲートが開きスタートを切ると画面が真っ白で黙っていたら放送事故かテレビが故障したかで、カメラがタイム予想でレースを追っているだけだった。
ゴール手前100メートル位に来ると霧の中から郷原の乗った一番人気のシルクスキーが踊りだして来た。
ここから――
『先頭はシルクスキー、シルクスキー先頭、シルクスキー先頭』
と直線だけの短いレースの実況が始まった。 
高等学校からの求人募集の会社に就職すると同期に競馬好の男がいて博才がいた。
賭けは毎回1人1000円と決めていた。
昼休みに同僚5人と四畳半の宿直室でオイチョカブを遣った。
その日、私はつきまくり一人勝ちと成る所まで来た。
『チュウ、1時まで後5分だから全部金を巻き上げちゃえよ』とニノに言われて色気を出した。
『よし そうするか』
『やるかい 』
『いいよ 』とあぐらを組んで、不敵に笑い余裕だった。
『俺から、親をやるよ』
『どうぞ』
気合を入れて差しで勝負した。
相手は残り200円持ち、私は4000円持っていた。
『一回ぐらい負けても倍々で張れば総取り出来るから』とデコサイに言われ強気で張った。
トランプは2と6を出した。
『2に賭ける』
『スペードのエースかシッピン・クッピンで勝てるな』
『4』だった。
『思案六方か』
『これだぁ』
一枚引いた。
『ハートのエースだから足して2だな。もう一枚も2かよ』
『たいして上がってないなぁ。勝った。勝負』
『6対4で俺の勝ちだ』
親が変わった。
5と10を出した。
『10で勝負』
親は『9だった』
配られた数字は10だった。
『これじゃぁ~ 豚だなぁ。10が出れば嵐で勝ちだ。もう一枚』
“ありゃ”
『1かよ』
親は1を引いた。
『クッピンだ』
『なんだよ これ 』
『大丈夫だから倍々で行けよ』とニノが言った。
『ちくしょう~』
『勝負 』
『また、負けた 』
『チューも勝負弱いな』
『今頃言っても遅いよ』
ウァハハ八八ノヽノヽノヽノ \
『タコ――』
連戦全敗してしまい逆転されて“オケラ”にされてしまった。
其れから、勝負強い男は会社を辞めて、銀座のホテルの皿洗いをしていた。
『あれ こんなところ何やっているんだよ』
『そこのホテルに就職したんだよ』
『そうかよ』
『中は何しているの』
『東銀座の場外売り場に馬券を買いに来たんだよ』
『競馬やるようになったんだ』
『去年の菊花賞で中穴当てたら辞められなくなったんだよ』
『素人がなまじ当てると、ハマるもんだな』
『藤巻も買いに来たの』
『そう』
それから何ヶ月して、競馬エイトに就職した。

外国ではモンキー乗りが支流だった。
それを日本では関東は増沢騎手、関西では猿橋騎手が壱早く取り入れていた。
その他の騎手は鐙を長くした天神乗りだった。
ローカルの鬼と言われた増沢騎手もイシノヒカルに騎乗して菊花賞一週間前のオープン戦(関西騎手)2000mを一着、無冠の帝王と言われた一番人気のタイティームをゴール手前で綺麗に差し切り、連闘で菊花賞3000mを一着、4歳(現在3歳)では古馬には敵わなかった天皇賞馬メジロアサマを4コーナーから馬なりで交わし、先頭に立ち一番人気で破り有馬記念2500mを一着になり、年度代表馬に成った。
今では考えられない化け物で名を挙げて中央開催でも活躍した。
翌年のハイセイコーで人気騎手に成った。
『猿橋だからモンキー乗りだ』とラジオの競馬中継で真面目な顔して冗談を云う所が大橋巨泉さんに気に入れられてテレビ番組にも出演して予想と解説をしていた。
『藤巻も昔から今も変わらないな』と出世した事を喜んで観ていた。

ラジオの深夜放送英語番組で『3・2・1・0・start\ボーン/』
ロケットが上がって行く時にテーマー曲として“パン、ピン、パン、ピン、パン、ピンルゥ~ルゥ~ルゥ~ルゥ~ルゥ~♪゚+.o.+゚♪゚+.o.+゚♪”とスキャットが流れていた。
『なかなか いい曲だなぁ~』と思って聴いていた。
何ヶ月かすると、その曲が流行りだして来たのかテレビの歌番組で由紀さおりが歌っていた。
【夜明けのスキャット】と分かった。
アルバイトの帰りにレコード店に行、店員のお姉さんにズボンのポケットから風呂敷を出し奥底の金を出した。
『夜のスキャットを下さい』と鈍臭い事を言ってしまい大恥を掻いた。
コツコツ貯めたアルバイト代は毎月末にレコード盤に変わった。
………………………………………………
『それなら、康夫の家金持ちで小遣い一杯持っているから巻き上げてそれで行こうぜ』
と野上と藤崎の二人と組んでイカサマ麻雀をした。
野上と康夫は従兄弟同士だった。
野上は一級上で私共々学校は別だった。
三人ともテンパッタ時に一息入れて場を見回した。
『イイ・リャン。サン・スウ勝負』と呪文を唱えた。
『リーチ』とパイを“ドン”と横に置き、麻雀パイの囲みの中に1000点棒を投げ込んだ。
間違って振り込まないように先に打ち合をしておいた。
『2番目に言った数字の筋が当たりにしよう』
『了解――』と決めていたので、カモの康夫以外は振り込む事はなかった。
半荘の内には一度は付きが回ってくるので、カモが親の時には、一度上がると波に乗って連勝する恐れがあった。
勝負運が出る前に【中】を『トイ』と一鳴きした。
『チイー・トイ』と鳴いて行き強引にテンパらせた。
パイ掴み力強く親指で盲パイしながら引き寄せた。
『1・2・3積もれ』と呪文を合図に2番目が当たりと知らせた。
『ロ~ン~』とわざと振込んだ。
『何だ 3ピンか、ドラ3枚で満貫だったのに』と薄ら惚けて悔しがった。
1000点を払い、傷を軽くしてさらりと流した。
『おかしいなぁ~』
などと17~18歳のガキ脳みそでは気が付かず、自分の配られたパイだけ見ていて相手の言葉など耳に入らなかった
“クックック ヒッヒッヒッ ”
カモがリーチを掛けると3人とも下りてしまい、積もらない限り上がる事は出来なかった。
『テンパイ』と全員牌を開いた。
『どれ 見せてみな』と待を見た。
『3・6・9のこんなにいい手で待っていても誰も振らないよ』
と褒め殺しの術を使いプレッシャーを掛けた。
カモは混乱して手作りが出来なくなってしまい舌戦でも勝った。
マージャーンをしているのはカモだけで、私達は鼻の穴を膨らませて笑いを堪え、パイを積んでは捨てるだけだった。
後は、焼き鳥を食わない様に一回上がれば完璧だった。
つづく