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1-5 火の見櫓の歴史

2017-10-21 | A「火の見櫓っておもしろい」を本にしよう

■ 1-5 火の見櫓の歴史

明暦の大火から始まった火の見櫓の歴史

1657年(明暦3年)の冬に発生した明暦の大火(この火災で江戸城も大半が焼失しました)による死者数は10万人に達したと言われています(「武江年表」107,046人―『江戸の災害史』倉地克直/中公新書 死者数には他説もあります)。

江戸は百万都市と言われますが、当時の人口は78万人くらいだったということですから、実に8人に1人がこの火災で亡くなってしまったことになります。江戸265年間で記録に残る火災は約770件で(前掲書に示された火災件数の概数)、明暦の大火はその中でも被害が最も大きい火災でした。

火消の組織づくり

多発する火災の対策として「火消」が組織されました。火消には武家地を守る武家火消(武士の組織)と町人地の町火消(町人の組織)があり、武家火消は大名火消と定火消(じょうびけし)に分けられます。

大名火消は1643年(寛永20年)に6万石以下の大名家16家によって編成されたのが始まりで、幕府直轄の定火消は明暦の大火を教訓として翌1658年(万治元年)に旗本4家で組織されたのが始まりです。また町火消はそれから60年後の1718年(享保3年)、大岡忠相によって出された町火消設置冷に基づいて組織されました。

定火消の組織化に伴い四谷御門内(麹町)、市谷左内坂(市ヶ谷 写真1-5-1)、飯田町(飯田橋)、小川町(御茶ノ水)の4箇所に火消役の屋敷が造られ、火災の発見と監視を目的に火の見櫓が建設されました。これが火の見櫓の始まりです。

4箇所の火消屋敷が江戸城の北西部に偏って配置されているのは、北西からの季節風の激しい冬季に火災が多発していたからだと言われています。江戸城へ延焼しないように風上にあたる場所を選んだのです。


写真1-5-1 市谷左内坂にある定火消発祥の地を示す標柱

明暦の大火によって江戸幕府は今でいう都市防災という考え方に目覚めたのでしょう。延焼を防ぐ広小路が計画され、火除け地(避難用の空地)が確保され出しました。耐火性能のある蔵も普及していきます。

江戸時代の火の見櫓

火の見櫓は武家地用と町人地用で定められた仕様が違っていました。


写真1-5-2 定火消の火の見櫓の内部構造模型(東京都新宿区四谷の消防博物館に展示されている火の見櫓の模型 写真1-5-2~7)


写真1-5-3 大名火消の火の見櫓

定火消の火の見櫓(写真1-5-2)が最も格式が高く、高さは5丈(約15m 1丈は約3m)内外と定められていました。火の見櫓は外壁が押縁下見板張りで上部は四方が見渡せる構造になっていて太鼓と半鐘が設置され、常時ふたりの見張り番が詰めて市中を監視していました。

大名火消の火の見櫓(写真1-5-3)は定火消の火の見櫓より低く、周囲は黒塗りです。特別の家柄を除き江戸城の方角を塞ぐことになっていました。火の見櫓の設置を許されていたのは八万石以上の大名火消と20家の火消役で、大名でも外様大名には許されなかったといいます(東京都の消防博物館の説明文を参考にしました。以下同じです)。


写真1-5-4 町火消の火の見櫓

町人地の火の見櫓は享保年間(1716~36)に10町(約1090m 町は距離の単位で1町は約109m)に1ヶ所ずつ建てられたといわれています。4本柱を横架材で繋ぎ、筋かいを入れて梯子を掛けてあります。方形(ほうぎょう)の屋根の下に見張り台がある形は今の火の見櫓に通じます。壁はやはり押縁下見板張りで黒渋塗りで仕上げてあります。定火消しの火の見櫓と違い、外壁を下部まで張っていません。高さはおよそ3丈(約9m)以下という定めがありました。町火消の火の見櫓で火災を発見しても定火消の太鼓が鳴らない限り、板木や半鐘を叩くことが許されていなかったそうです。これには驚きです。


写真1-5-5 江戸深川資料館 再現された火の見櫓


写真1-5-6 江戸深川資料館の火の見櫓の内部 



写真1-5-7 消防博物館に展示されている町火消の枠火の見

火の見櫓のない町には自身番(自警団の屯所)の屋根に梯子を立てて半鐘を吊るしただけの簡易な枠火の見(火の見梯子)が設置されていました。

明治以降の火の見櫓

1894年(明治27年)に消防組規則が公布され、公設の消防組が編成されました。江戸から明治に時代は変わり、組織が変わっても火の見櫓は木造のままでした。明治の末頃からは鉄骨造の火の見櫓も建てられたのですが、大正から昭和初期はまだ大半は木造でした(写真1-5-8、9)。



写真1-5-8 東筑摩郡朝日村の火の見梯子 撮影大正14年 

梯子に登っている人の身長からこの火の見梯子がかなり高かったことが分かります。梯子段の間隔も大きいです。


写真1-5-9 恵那市明智町にある大正村の火の見梯子

  
写真1-5-10、11 大町市美麻の火の見櫓(移設前)

ちなみに私が火の見櫓の世界に入り込むきっかけとなった大町市美麻の木造の火の見櫓は1926年(大正15年)4月に建設されたことが、櫓の柱脚を固定する台柱に刻まれた記録から分かっています。


写真1-5-12* 江戸東京建物園 上野消防署(旧下谷消防署)の望楼上部 1925年(大正14年)

『考現学入門』今和次郎/ちくま文庫に大正末期から昭和初期の火の見櫓のスケッチが何点か載っています。それを見ると当時は木造の火の見梯子と鉄骨造の火の見櫓が混在していたことが分かります。ただし前述したように大半は木造でした。

第二次世界大戦の直前の1939年(昭和14年)に消防組は警防団に改組され、終戦直後の1947年(昭和22年)には消防団令により市町村に消防団の設置が義務付けられました。それに伴い、この年に警防団は廃止されました。1948年(昭和23年)に消防組織法が公布され、消防団は地方公共団体に付属する消防機関として規定されました。

戦時中は金属回収令により戦前に建てられた鉄骨造の火の見櫓の多くが解体され、供出されました。この時、半鐘だけは隠して供出しなかったということもあったそうです。集落の人たちにとって半鐘がいかに大切なものであったかを示すエピソードです。


写真1-5-13 火の見櫓に付けられた銘板に記された建設年

戦後、昭和30年代をピークに鉄骨製の火の見櫓が全国各地で建設されました。現在目にする火の見櫓の大半はこの頃建てられたもので、既に60年以上立ち続けていることになります。今日では防災行政無線の整備が進み、半鐘を叩いて火災を伝えるという火の見櫓本来の役割はほぼ終わっています。中には防災行政無線のスピーカーやサイレンを設置する塔や、消火ホースの乾燥塔という新たな役目を得ている火の見櫓もありますが、次第に姿を消しつつあります。江戸初期以来およそ360年になる火の見櫓の歴史にピリオドが打たれようとしている、これが現状です。

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