と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

去年ふと思ったこと・・・夢にまで出てくる某大学大学院

2016年06月18日 20時35分13秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年
 
悟りとか、修行とか、諦めとかいう心境からはほど遠い

夢にまで出てくるのだから、フロイトだったらなんというだろうかねぇ・・・トホホ  悟りとか、修行とか、諦めとかいう心境からはほど遠いのだと、今朝はしみじみ思った。......
 

 

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もう諦めたから(学位取得を)、自然体でできる。ボキの文化講座は。

2016年06月18日 09時24分26秒 | 悪業三昧自省録

7月9日(土)に千葉市民会館で午後1時から「今昔物語と鬼来迎」というタイトルで話をさせていただくことになっている。2時50分まで。

 

 

あさましや、あさましや。

郷土史関係のボランティアもやらせていただいているんじゃけど、facebookでその広報を担当している。で、7月9日(土)に千葉市民会館で午後1時から「今昔物語と鬼来迎」というタイトルで話をさせていただくことになっている。

広報担当だから、宣伝をせよということを事務局長から仰せつかったからである。

去年までだと、これを千載一遇のチャンスだと思っていた。だから張り切っていた。成果を残して、学位取得のポイント稼ぎにしようと思っていた。

今年は、もう諦めたから(学位取得を)、自然体でできる。内容は、ボキなりに努力した結果である。某大学大学院博士課程で書いていたゴミ論文の一部である。だから、鑑賞には堪えられるかもしれない。それなりに。

それに諦めたから、いろんな話ができる。鬼を登場させて、あるいは不動明王を登場させて、その裏に地蔵さんがいるかもしれないなんて勝手なことをくっちゃべるつもりである。しかも、動画で説明する。

ま、説明だけならバイトで慣れている。塾と二つの大学でしゃべっているからで。

パワーポイントもできるようになってきたから(^_^)。

ともかく、自然体でやることですな。

なにかの目的のために、スケベ根性で悪あがきをしているとそれこそお里が知れるっちゅうもんでしょうから。

ああああ、あさましいことに気がついただけ、幸せでございまするよん。

 

わははっはははっははっはははっはは。

 

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色好みで、なかなかの悪党でもある(^_^)。芭蕉も一茶も。

2016年06月18日 09時07分47秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

一茶もそうだが、妙好人としての意識がボキにはあるから

 

 

俳聖芭蕉の本当の姿というのは、なかなかわからなかった。むろん不勉強による。ボキの。

で、俳句の得意な高橋順子先生(東大仏文科卒の詩人)という方の文学賞ができたので、老人大学代表ということで審査員を拝命したから、あちこちと読み始めた。

どーも俳文学は得意でないからである。それでもこういうきっかけでもって、勉強する価値はあると思った。思ったから急ピッチで勉強している。なにしろ時間は死ぬのを忘れてしまうほど、ボキにはあるからだ。

嵐山光三郎という作家からも相当な影響を受けた。例の「奥の細道」の研究書(概説書というべきか)もあちこち集めたからである。その中の一冊が嵐山光三郎センセである。

衝撃の内容が書かれてあった。芭蕉のことを辛辣に書いてある。批判している。俗物として理解されているんだろうか。ま、どっちでもいい。ボキは、俳文学「も」ド素人だからで。

それでも書いてあることには、どっきりした。

芭蕉を崇めたてつまり、まるで宗教のようになっているではないかというご指摘には我が意を得たりであるからだ。もっとも芭蕉は当時の二条家から神格化されてしまったから、事実神様であることは間違いないのだろうけれども。

問題は、ボキもまた芭蕉を神格化していたことである。そのことに気がついたのである。

「古池や・・・・」のあのチョー有名なる一句も、蛙を登場させることに、生類憐れみの令を出した将軍家との関連があるというに到っては、へぇ~~~~~~であった。

こういう視点から芭蕉を分析した方を知らなかったからである。

芥川龍之介も正岡子規も、芭蕉のことについてワルクチを言っている。これもまた知らなかったことである。正岡子規は、芭蕉を尊敬しているとばかり思っていたからである。

「奥の細道」をそのまま辿って奥州を旅してあるくのもいいもんだったし、事実ボキもやってきた。全部踏破したわけではないが。句碑を眺めて、理解したような気になっていたのである。写真を撮って、マンゾクしていた。さらにその後に、地元の温泉に入ってふんわりしているのが好きだったからで。大型バイクでツーリングをしていたのも、それが理由であったからである。もうできないけれども。病気になって身体を壊してしまったから。(残念)

ともかく、芭蕉のノートを取り始めた。

一茶もそうだが、妙好人としての意識がボキにはあるからである。

神様ではなかった芭蕉に安心したからである。芭蕉はただの凡人であったのだ。やったことは凄いことであったが。しかし、庶民の延長上に生きた人であったのだ。

色好みで、なかなかの悪党でもある。芭蕉も一茶も。

別段悟りすました禅的な趣向をさぐるなんてぇことを考えるから、おかしくなっちまう。

ありがたや、ありがたやである。

感謝である。

 

今日は良い天気である。

さらに嬉しいことに、今日は孫が一泊二日で遊びにくる。

ありがたいことである。

孫と一緒に戯れて、また一日が過ぎていく。

これでよし、これでよし。

ジジイには、そういう平凡な時間がありがたいだけである。

アリガタヤ、アリガタヤ。

(^_^)

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6月17日(金)のつぶやき その2

2016年06月18日 05時29分12秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年
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6月17日(金)のつぶやき その1

2016年06月18日 05時29分11秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/