モラトリアムはこころの動揺か・・
中村天風という人が好きで、ほぼ全部の書籍を読んだ。中年のときにである。つまり40代である。いろいろと仕事で悩んだ時期であった。好き勝手に仕事していた若い時期を過ぎて、幕張の情報教育センターに遠距離通勤をさせていただいた時期であった。コンピュータというものを仕事として取り組ませていただいた時期である。ボクのような人間には相当負担が大きく、マイッタっけ。しかも3年間いたのである。そこに。放送大学の隣であった。必然、放送大学には興味を持った。食堂も行かせていただいた。とうとう放送大学に入学もした。選科生であった。
そして、それから16年間の管理職生活が始まったのである。そういう時に、指針がほしかったから中村天風に興味を持った。組織をまとめ、トップの意図を実現していくというナンバー2の役割というのは非常に困難なものがある。あまり詳しくは書けないが、自分自身の問題として「こころの動揺」ということをよく考えたのである。自分が揺らいでいては、管理業務なんぞできやしない。ある意味、武道と通じるところがある。オノレのこころの安定がないと、他者にいいアドヴァイスもできない。否、やっちゃいけないと思っている。それほど仕事というのは甘くはないのである。そういう時期を経ているから、ボクの現在の生涯学習者としての生き方は、素人だと思っているのだ。反省しなくちゃアカンでですなぁ。道楽で生きているし、基地外だと云われても仕方がない。
ただし、ボクはアイデンティティの確立とか、なにをやったらいいかわからないとか、自分捜しの旅とか、第二の人生を探しているというのは卒業している。よくいるではないか。いい年こいて、モラトリアムを主張していてはいかがなものか。ちなみにモラトリアムというのは心理学用語で以下のように書いてある。
<moratorium>
本来モラトリアムとは、支払い猶予期間、つまり債務者の破綻などで経済に大きな打撃を与えると予想される場合に、債務の支払いを延期することを指す。
エリクソン E.Eriksonは、このことばを精神分析用語に転用し、青年期に自分の進路を決定するにあたり、なかなか結論が出せないまま目的もなく過ごしてしまうある期間のこと「心理・社会的な猶予期間」とした。
彼はこうした期間を、社会的に成長するために、また、より自分らしい人生を選ぶために必要な時間として前向きに捉えた。
生涯学習で第二の人生を・・・と書く人や、云う人はたいていこれである。
人生は待っていてはくれないのである。仕事をしながら、モラトリアムというのでは話にならない。仕事は仕事。やるべきことはやって、それから考えることである。良い視点がある。モラトリアムで悩んだら、お仕舞いから考えることである。死ぬときにどう思うのかということである。いつまでもモラトリアムだと、人生の終わりのことは考えられない。死ぬことが前提にないからである。さらに、モラトリアムにつきあわせられる恩師とか、友人とか、家族に迷惑をかけることになる。たまったもんじゃぁないだろうからである。
考えること自体は尊いと思う。
一番注意したいのは、やはり「こころの動揺」である。
そういう時に、中村天風は参考になった。あるコツも彼は書いている。カタカナで五つである。それはご自分でお探しを。(^-^)/
さ、今日は晴れである。ボクの心境のようである。柔道着を洗って、一日楽しく過ごしましょう。
(^_^)ノ””””