昨日、「赦す」という記事を書きましたが、
僕が大学を卒業して課題となったのが「赦す」ということでした。
これは僕の本来持っている心の未成熟性もあり、
人を恨むという感情を初めて知り、もがいたのが大学時代でした。
自分の中に燻ぶる怒りの感情や夜も消えない螺旋の思考、
しかも自分の未熟さを感じると自分を責め、少しの身動きもできませんでした。
ただ、今思うと、それは若さゆえのただ単なる悩みであっただけなのかも知れません。
そして、大学を卒業する時に、卒論のゼミの先生が僕に仰ってくれた言葉は、
「人を恨むと、その人の墓を掘るだけでなく自分の墓も掘ることになるんだよ」
と。
先生は、僕の悩みがなんであるかを知っているかのように優しく諭してくれました。
あれから10年が経ちますが、その言葉をずっと心に留めて過ごした時間は、
自分の悩みや恨みを「昇華」するという作業でした。
もちろん今でもそれは消え去っているものではありません。
しかし、何か一つ自分の中で形として結晶したときに、
その「赦す」ということの意味が分ったような気がしました。
その時、もしかしたらその恨みの感情さえも人を玉にするものなのかも知れないと思いました。
ただ、これはあくまでも自分の主観であり、
自分の経験がそんなに酷いものであったかどうかは定かではありません。
人を「赦す」ということはどんな話を聞いても、
それをどうするかについては、自分自身が経験する以外は分らないものなのかも知れません。
最近、大学時代を過ごした街を訪れてみようと思い始めています。
でも、僕のあの時の悩んでいた時間が過ぎ去ったように、
街の風景も変わっているような気がするのです…
僕が大学を卒業して課題となったのが「赦す」ということでした。
これは僕の本来持っている心の未成熟性もあり、
人を恨むという感情を初めて知り、もがいたのが大学時代でした。
自分の中に燻ぶる怒りの感情や夜も消えない螺旋の思考、
しかも自分の未熟さを感じると自分を責め、少しの身動きもできませんでした。
ただ、今思うと、それは若さゆえのただ単なる悩みであっただけなのかも知れません。
そして、大学を卒業する時に、卒論のゼミの先生が僕に仰ってくれた言葉は、
「人を恨むと、その人の墓を掘るだけでなく自分の墓も掘ることになるんだよ」
と。
先生は、僕の悩みがなんであるかを知っているかのように優しく諭してくれました。
あれから10年が経ちますが、その言葉をずっと心に留めて過ごした時間は、
自分の悩みや恨みを「昇華」するという作業でした。
もちろん今でもそれは消え去っているものではありません。
しかし、何か一つ自分の中で形として結晶したときに、
その「赦す」ということの意味が分ったような気がしました。
その時、もしかしたらその恨みの感情さえも人を玉にするものなのかも知れないと思いました。
ただ、これはあくまでも自分の主観であり、
自分の経験がそんなに酷いものであったかどうかは定かではありません。
人を「赦す」ということはどんな話を聞いても、
それをどうするかについては、自分自身が経験する以外は分らないものなのかも知れません。
最近、大学時代を過ごした街を訪れてみようと思い始めています。
でも、僕のあの時の悩んでいた時間が過ぎ去ったように、
街の風景も変わっているような気がするのです…