つれづれ 2

庭の花や身近な出来事などを退屈しのぎにあれこれ綴っています。

大人の遠足 とかさや散歩

2017-11-19 16:48:48 | 馬場先生の野外講座



日高市の高麗神社へー高麗の里散策

9月に訪ねた大磯の高来神社一帯は古代朝鮮半島からの渡来人が
住んでいた地でそこから多くの人が埼玉県日高市に移ってきました。

高麗の地は大磯の真北に当たり、そこから北上する道筋(約95キロ)
を歩く催しも行われているようです。
馬場先生のプリントに貼付されていた写真です。


この日は 八高線高麗川駅で下車して 歩き始めました(11月18日)
高麗の里 散策スタートです。
雨になる予報でしたので、天気はイマイチでしたが、
予報が外れてくれたのでラッキー日でした。



高麗川
奥武蔵山塊にある正丸峠(651m)付近を水源として日高市域を貫流。
越辺(オッペ)川に合流して のち入間川に入る川です。



十月桜の咲く静寂な参道を歩くと遠くに二の鳥居が見えてきます。



「天下大将軍」「地下女将軍」と書かれている男女一対の
チャンスンが立っていた。朝鮮に伝わる悪魔退治、災厄防除の神で
村の入り口などに立てられています。



明治には浜口雄幸が参拝し、総理大臣になった事から出世明神として
知られるようになり政治家や作家、芸能関係者の参拝も多い様です。



山門の奥に高麗神社が見えます。



高麗神社
日高市新堀字大宮に鎮座する。
祭神は高麗王若光・猿田彦命・竹内宿禰。



高麗家住宅
代々高麗神社の神職を務めてきた高麗家の旧宅で入母屋造り・茅葺
柱は手斧仕上げ、表座敷には押板(床の間の原型)を構える。



石碑
高麗家住宅の東側に詩人野田宇太郎の詩碑がある。



神楽殿、斉館、など広い境内を眺めながら
休憩所で森脇さんが持参してくださったクッキーやチョコレートを
頂いて軽食を済ませた。
今日は昼食が遅くなる予定なので…と仰っていました。
申し訳ない…と思いながら頂きました。
美味しかったです~



その後、聖天院へ向いました。
遠くからでもその荘厳さが際立って美しく見えました。
聖天院は高麗王若光の冥福を祈る為に建てられた寺院です。



重厚な感じのする雷門です。



中門を入ると広々とした美しい庭園になっています。
屋根の形の美しい阿弥陀堂も鎮座している。






石段を昇ると立派な本堂があります。



境内の見晴らし台からの眺めは素晴らしい…



本堂の隣りにある雪山と云われている石灰岩は
本堂を造成する時に出土した石灰岩で中々の風光明媚なものでした。



高麗王廟
高麗若光の墓とされている。

高麗神社や聖天院は良く手入れがされていたのが印象に残りました。
高麗王若光が時代を超えた今でも高麗の地にとって
大切な存在である事が伺えます。



そして巾着田へ向かって歩いた…
チャンスンをモチーフにした案内柱などが表情豊かに立っています。



車道を避けて出来るだけ川沿いを歩いた…
高麗川はこの先で川が蛇行しているのを上手く利用して
川を堰き止めその内側に水を導いて水田とした。
現在では一部を残して休耕田となっており、
秋には曼珠沙華の群生地として知られている。



途中、高麗郷にある古民家を見学した。
母屋の建築年代は江戸時代末から明治時代前半と考えられるが
建物は数年にわたる改修で当初の形式が大きく改変されているそうです。

その後、遅い昼食をテラス風の暖かい「阿里山カフェ」で食べました。
野菜たっぷりの美味しいお料理でした。



西武線高麗駅の前にもチャンスンが一対周囲を見渡す様に立っていました


私は 高麗川と云う駅の名前は、20代の始めの頃
高崎から八高線に乗った時
初めてその読み方と存在を知った駅でした。

今日はその高麗川駅から歩きはじめました。
1300年もの昔、朝鮮半島からやって来た高句麗人等が
先進文化を取り入れ高度な生活を営んでいた場所で
高麗の里と呼ばれていること、

高麗川が蛇行している事を上手く利用して川を堰き止め
その内側に作った豊かな田園があった事など を知り
高麗人のロマンに想いを馳せながら帰途についた一日でした。

来月は鎌倉です。
どんな風景に出会えるか楽しみです。









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