まちと表現、そして劇場  Town, expression, and theater

横浜を拠点に演劇公演を見て回るとともに、地域の芸術文化、まちづくり、ビジネス、歴史など幅広く取材する中で……山田ちよ

黄金町界わいをぶらつけば

2008年10月31日 15時27分52秒 | Weblog
京浜急行の横浜駅から各駅停車で二つ目、日ノ出町駅とその隣の黄金町駅にある地域(初黄・日ノ出町地区)では今、「黄金町バザール」と題したアートイベント(公式サイト http://www.koganecho.net )が今年11月30日まで開かれている。横浜市が力を入れている事業で、横浜トリエンナーレとの相乗効果も狙っている。
この辺りには4年ぐらい前まで「特殊飲食店」と呼ばれる、売春をする店がひしめいていた。その数、最盛期には250を優に超えたという。ついに住民が立ち上がり、行政・警察の協力を得て、違法営業店を一掃した。商売が行われていない店舗が残るまちで、目下、地域の人々が尽力している「安心・安全、住みよいまちづくり」にとって、このイベントは起爆剤などとして期待されている。
このイベントの「ガイドブック+読本」は1,000円で販売中。「読本」とは、まちの歴史やエピソードなどを集めて紹介しているもの。まちに来た人には、イベントを楽しむばかりでなく、「かつては普通のまちで、横浜の発展を担ったが、戦災などの不幸な出来事に翻弄され、マイナスイメージを背負うことに。しかし今、住民が力を合わせて新しいまちづくりを進めている」ことを知ってもらうことも大切、という趣旨で、展覧会のカタログ的な体裁の「ガイドブック」の後ろに合冊として付いている。私は、この「読本」の編集に係わった関係で、会期中も何度か足を運んでいる。
まず見るべきものは、このイベントのため、鉄道の高架下に新設された二つのスタジオだ。なかなか凝った構造の建物で、展示される前に外から見ただけでも面白かった。ほかにも店舗を改造した展示スペース、店舗をそのまま使った展示などもある。高架線のほぼ南沿いに川(大岡川。桜並木で有名)が流れていて、その川沿いのプロムナードには休日、パラソル付きのショップなどが並ぶ。
そのパラソルショップ横で、10月26日に、きむらとしろうじんじん(写真ほぼ中央)というアーティストが開く「野点(のだて)」があった(写真は夕暮れ、閉会間近のころ)。10~11月にかけて7回、この界わいのあこちちで、写真にあるように、簡易な窯や湯沸かしなどを備えたカートを利用して、「野点」と題した抹茶カフェを開く予定だ。これは、お客が、素焼きの茶碗に上薬で色付けをすると、1時間ほどで焼き上げてくれ(楽焼き。案内板には「順番待ちがなければ30分ぐらい」と書いてあるが、スタッフによると1時間ぐらいとか)、その後、自分で仕上げた出来立ての茶碗で抹茶が飲める、という趣向だ(茶碗づくり1,500円、抹茶・菓子付き300円)。
先日、ヨーロッパの友人が、向こうで「茶の湯」をやりたいが、どういう手順でやるの、と聞いてきた。その人がどんな道具を持っているのか分からないが、専門家の指揮下でやるのでなければ、作法を守ってもしょうがない。「好きなようにやったら」と答えたものの、何かアドバイスできることはないか、と悩んだ。その答えがこの野点にあった。
ただ客にお茶を振る舞う、という一般名詞の茶会なら別に凝る必要はないが、日本の茶道をベースとした茶の湯(お茶会)を名乗るには、何か特徴が求められる。例えば、茶道で言われる「一期一会」という言葉が示すように、その場での出会い。自然の良さを感じるとか、茶碗や菓子などの匠の技を味わう、といった要素もある。集まってお茶を飲むことに、精神的で、はっきりとした付加価値を付ける、とでも言えるだろうか。
一方、きむらとしろうじんじんの「野点」の特徴の一つは、お茶碗が自前。茶道には、由緒あるお茶碗を使い、客はその魅力などに共感する、といった作法があるので、自分で焼いて自分だけで楽しむというのは、茶道の伝統とはある意味、ずれている。しかし、色付けという作業を通じて焼き物の技に触れたり、上薬がもたらす不思議な色合いを味わったり、あるいは、一緒に絵付けをする人と交流する、といった体験ができる。そう見ると、茶道に通ずるものがある、と言えるだろう。こんなふうに考えれば、その国、その地域、その人流で、しかも日本的精神にも通ずる「茶会」がいろいろ生み出せそうだ。

このスタイルで別のが見たい

2008年10月27日 20時34分58秒 | OFF演劇時評
急な坂スタジオ主催『ラ・マレア横浜』/横浜市中区吉田町街頭/10月5日夜観劇
アルゼンチンの劇作・演出家、マリアーノ・ペンソッティを招き、日本の俳優とスタッフと共同でつくった舞台。吉田町はJR関内駅近くで、250mほどある通りの両側に店が並んでいるが、そのうちの100mほどの通りを使って、10月3~5日の午後7時~9時に演劇的パフォーマンスを行った。
事前の説明で、吉田町の通り沿いの画廊などを使って、いくつかのドラマを見せる、観劇は無料、という話だった。それで、その時間、吉田町に行くと、あちこちの店の中で演技をしていて、観客は、画廊をのぞいたり、ウィンドーショッピングするような感覚で、それぞれを楽しむ、という感じかと思った。だがそうではなく、すき間なく見なければならなかった。
午後7時になると、一斉に9カ所でドラマが進行し、10分後、一斉に終了、それから2分休憩があってまた一斉スタート。それが10回繰り返されて終わり。9カ所のうち、1カ所は二つのドラマを交互にやった。つまり、2時間びっちり街にいて、2分の休みだけ置いて次々に見て(見る順番は好きに選べる)、やっと全部見られる、という仕掛けだ。
内容は、作家がアルゼンチンの都市を舞台にしたと思われる原作を、横浜を舞台に直したもの。一つの店内に装置を組んだり、あるいはカフェそのものを使ったり、歩道や道路、バルコニーを、そのまま街の歩道や道路、バルコニーという設定で使ったりして、それぞれ1人か2人のドラマを同時進行風に見せる。ただし、俳優はほとんど声を出さない。言葉は、各ドラマの近くに設けられたスクリーンに映し出される日本語の字幕で伝えた。字幕の内容は、人物の心情を一人称で語ったのもあれば、何か動作をしている人(たち)について、三人称で、その過去の出来事や現在の心情などを説明していく、というものもあった。
字幕のための機器と投影方法には、かなり手間を掛けていた。観客の視線を邪魔しないように、投影する機器を置く場所など、凝っていた。それでも、字幕が見える範囲に限りがあるし、演技空間も小さいから、観客が大勢いるところへ後から行くと、よく見えない。しかも、最終日はかなり強い雨(そのためドラマが一つ、途中で中止になった)で傘が必要となり、よけい見にくくなった。
一人の作家が9つ書いたものだから、いろいろな設定とは言っても、作家の発想法は同じだから、次々と同じようなドラマを見せられた、という後味だ。例えば、今その人物が何を考えているか、という内容の中には必ず、この先、どうなると考えているか、という話が出てくる。具体的な内容は異なるが、つまるところ皆、今より良くなるのでは、という期待や希望を抱いている。それが繰り返されるうち、どれも似たり寄ったりの話に感じられてきた。劇場でのオムニバス作品なら、さほど不満に思わないかもしれないが、あちこち見て回る趣向だから、もう少し違う発想で、この独特の演劇空間を生かしたドラマを、いくつも見せてくれたら、と思う。
これと同じような手法で、いろいろな作家のドラマを並べたらどうだろうか。こういうスタイルの公演は、演劇だけでなく、まちの活性化などの取り組みにもつながるはずだから、ほかのまち、地域への広がりが期待できる。また、いくら翻案したとはいえ、外国人作家が書いたドラマでは、生活習慣、宗教観などの違いで、納得しにくい部分が出てくる。話が短いと、なおさら、違和感が強調される。そういう意味から、日本人作家を中心とした企画の方がよいのでは、とも思う。
(写真は終演後の吉田町)