ツトムさん家の写真日記。

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第759回 国定忠治 処刑場跡。大戸関所跡。

2013-02-12 19:00:00 | 旅行

2013 02 02(土)


真冬の大寒の最中だと言うのに異常に暖かい日和に誘われて車を走らせ群馬県の名峰・榛名山の西奥地へ・・・。
秘境といわれた倉渕村権田(明治の父と尊崇される小栗上野介の墓があります。)を通過し、草津温泉へ通じる「草津街道」(国道406号)を暫く走ると道路の右手に「忠治地蔵」の看板。

看板脇の無料P場に停めて、早速見学へ・・・。
立派な石柱には「国定忠治処刑場跡」「国定忠治慰霊碑入口」の文字。
  
国定忠治は27歳の時、子分の仇をとるため手下30余人をひき連れ大戸関所を破り信州に向い、関所破りの罪で手配され13年後に捕縛、この地で41歳のとき磔刑に処せられます・・・。

同日の雪積もる大戸関所跡

江戸時代末期の大戸関所見取り図。 関所役人が詰めていた所が御番屋、南北の御門から入って御番屋で吟味されました。

国定忠治処刑の原因には諸説語り継がれています。
天保の大飢饉のとき、上州岩鼻の代官所を襲い御米蔵から奪った糧秣を困窮した民百姓に分け与え、赤城山に籠った事などから指名手配を受けたとか・・・。

草津街道から少し下がった場所に建つ、侠客“国定忠治”処刑場を拝見。

磔刑された日(嘉永3年・1850年)には、忠治の徳を偲んで全国各地から1500余人が刑場に集まったと伝えられ、
その10年後の文久元年(1861年)には背丈2mほどの国定忠治地蔵が建てられました。

処刑場跡中央には“国定忠治地蔵尊”、着流しに合羽姿の忠治像。腰に草鞋を下げ背中には三度笠の旅姿、大戸関所を破って信州へ行く旅姿か・・?
 
お顔は験担ぎの博徒に削られたのか?最初から顔は彫られてなかったのか?のっぺらぼ~状態。

卒塔婆には国定忠治の戒名「長岡院法誉遊道花楽居士」。忠治地蔵にすがると中風(脳卒中)にならないとの言伝えがあります。
  
実は、故郷の国定村に帰った忠治は40歳のときに脳卒中で倒れ、中風をを併発し半身不随になり、終に捕縛されてしまいます。

忠治地蔵の背後には「国定忠治慰霊碑」。忠治慰霊碑を建立したのは大阪市福島区の石本久吉氏。


国定一家十二人衆」の名前を刻んだ慰霊碑も建てられています。(大阪 酒梅五代目 谷口正雄氏建立)
 
他にも忠治に関する石碑が沢山あります。

「国定忠治慰霊碑」の後ろ、陰に隠れるような場所に国定忠治の墓がありました。
墓地の背後の広瀬の藪川原で磔刑に処せられた国定忠治はこの墓石の下に埋葬されたそうです。(胴体と左手足を埋葬)
首と右手足は処刑数日後、愛妾「お徳」と国定村有志が奪い、秘かに故郷国定村に持ち帰ります。

墓石の法名は「長岡院法誉花楽居士」、卒塔婆に記された「遊道」文字はありません。
 
側面には「侠客 国定忠治 処刑跡 嘉永三年十二月二十一日没、俗名 長岡忠次郎 享年四十一歳」。
昭和五十一年七月に墓を造ったのは大阪市の石本久吉氏。

忠治処刑場跡がある草津街道には、「国定忠治とまどいの松」といわれる一本の松があります。
天保7年(1836年)に大戸関所を破ろうかと国定忠治が根元で思案した村境の松樹。(現在のは三代目)
 
上州権田村と萩生村の境に立つ国定忠治とまどいの松まで、権田に隠棲していた小栗上野介が馬で遠乗りしていたと伝えられています。

伝えられる忠治辞世の句「見てはらく(楽) な(為)しては苦敷(くるしき) 世の中に せましき(すまじき)ものは かけ(賭)の諸勝負」。

群馬の山奥に侠客・国定忠治の足跡を訪ねる一日となりました。

国定忠治 ⇒ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%9A%E5%BF%A0%E6%B2%BB


次回では伊勢崎市国定の「国定忠治の墓」を訪ねます。


2013 02 12(火)記。    前橋市 時々     最高気温 6.2℃    最低気温 -3.2℃
 

おまけコーナー。

神秘的で幻想的な氷の世界。
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52110886.html


水の上を歩いているような氷結したバイカル湖。
Ice of Lake Baikal. 7 cm. Байкальский лед. 7 см.


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