ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

観福禅寺

2014-05-07 05:00:00 | 田舎

雨の中、田辺の街を少しばかり散策したけど時間はなかなか経たないので、駅の横にある『木紙布庵えん』という地産の土産物を売る店に入り、少し時間を費やして1冊1500円もする『紀南の地名』という本をⅠ・Ⅱ巻2冊買ったのでした。その内容についてはいずれ何処かで書くかも知れません。紀南と言いながら、殆どが田辺の記述ですが、姫の地名の所以も少しばかり書かれていました。

             

それでも未だ電車が出発するまでには1時間ばかり有り、何もすることが無いので待合室の椅子に座って時間を過ごしたのでした。16時38分発の新宮行き普通列車に乗り、紀伊新庄・朝来・白浜の次が紀伊富田です。朝来という字は兵庫県に朝来(あさこ)市があり、椿温泉の近くに朝来帰(あさらぎ)という集落が有り、すさみ町と白浜町を結ぶ国道42号線上に朝来トンネルがあり、紀勢線の朝来駅は「あっそ」と読みます。他にもこの字を使っている所があるかも知れませんが、読み方だけでもいろいろあるものです。5時前に紀伊富田駅に着きましたが、肝心のU畑君は6時半まで仕事、これから未だ1時間半も時間を潰さねばなりません。

       

U畑君の家に行ったのは1年半ほど前、あの時は車で迎えに来てくれましたから、今回駅からどう歩けば良いのか、どうも不安です。駅を降りて信号を渡るとすぐに白華山・観福禅寺の案内柱が立っていたので、時間潰しにそちらへ行ってみようと思いながら歩いていました。途中でも案内柱があったので、このお寺へは簡単に行くことが出来ました。

             

門前には“禁殺生”の表示石(案内板にそう書かれていた)、1732(享保17)年、若山寺社奉行所より境内周八町、禁殺生地の指定を受け、禁殺生石を下し置かれたそうで、現在でも境内境界地に数個残っているそうです。若葉色の葉が落ちてると思っていたら、動いたのでよく見ると、それはアマガエル、普通2~3cmなのに、このアマガエルは5cmぐらいありました。

       

境内を奥に進むと高野素十という人の句碑があり、“使はざる 秋炉一つの お寺かな”あまり上手くは無いと思うのですが、高浜虚子の高弟だとか、でも終生俳壇とは無縁を通した人だそうです。もっと奥にはお墓が見え、案内札が立っていたので行ってみると、歴代の住職のお墓らしきものが並んでおり、どれだかは判りませんが、龍賀(可)法印の墓が史跡と指定されていました。そう言えば門前にもその石碑が新しく建てられていましたね。

             

『妙善』と彫られたこれは墓碑なのでしょうか。こちらには何の説明も有りません。

       

この頃になると、少し雨も緩んできて、少しは楽になってきました。無縁仏の列や居所の前のソテツ、お地蔵さんがあったので、これが案内柱に書かれていたボケ除けの地蔵なのかと思ったのですが、違いました。

             

弘安寺本尊阿弥陀堂、明治27年にこの観福禅寺に移されたもののようです。

                       

こちらが、案内柱に記されていたボケ封じのお地蔵さんだそうです。

                    

地蔵さんの右に『奈良大阪和歌山ぼけよけ二十四地蔵尊霊場第七番』、左に設立趣旨として、21世紀を迎え高齢化社会云々と綴られている石碑が建っています。鐘楼の壁に架かった『みちしるべ』と書かれた訓示、残念ながらボケていますが、“過ぎ去るを追い 念(おも)うことなかれ、未だ来らぬを待ち 設くることなかれ、 ・・・ ただ現在の法を観よ、うごかず たじろがず、ただそれを知りて育てよ。今日なすべきことを為せ。誰か明日 死の来るを知らんや。”
             
             

写真としては電柱の支柱が邪魔でしたが、門横にあった水掛不動尊。あらゆる悪魔を降伏されるため憤怒の相をした明王、ここまで観てなかなか立派なお寺だと思いました。


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