つくすの折にふれ

旅の思い出などを

思い出・飯塚会長へ

2013-09-04 06:42:08 | インポート
 自分たちの呑み会「れいの会」(幻の吟醸酒を飲む会)の設立者であり会長であった飯塚均さんが亡くなりました。その葬儀の際、機会があればと用意したお別れのあいさつです。会長の思い出のために掲載しました。ご冥福をお祈り申し上げます。

 飯塚均さん、と呼びかけるよりも自分たちはいつもダイナミックさんと呼ばせていただいていましたので、ここでもダイナミックさんといわせていただきます。ダイナミックさん、どうして、旅立たれてしまったのですか。長く続いた病との戦いを、もう十分やったからいいと思われたのですか。でも、この葬送の場にいる、すべての人は、もっとがんばって、周りのみんなに元気を与え続けてほしかったのにと思っているのではないでしょうか。
そうした無念を申し上げながら、ダイナミックさんのご霊前に謹んでお別れのことばを申し上げます。
 ダイナミックさんと自分とのおつきあいは日本酒によって深まりましたが、一方的に自分がお世話になるばかりのおつきあいで、いまも深く感謝しております。
 ダイナミックさんを語るには、野球、スキーを初めとするスポーツでのご活躍を語るべきなのだろうと思います。そのことの一端は昨夜の御導師様のお話しにありましたが、若いころから光り輝く存在だったことが分かりました。自分は、お酒が縁の思い出を語らせていただきます。
 自分とダイナミックさんとの出合いは、清水高校前にあったダイナミック・スポーツさんで、野球チームのユニホームを作っていただいたことから始まりました。ときおりお店を訪ねる関係にあり、そのうちに少しずつおしゃべりするようになっていきました。
 昭和55年の野田市長選挙の際、当時の市長候補川島健正さんと、革新市政を破って就任された草加市の今井市長さんを結び付ける役もしていただき、川島市長誕生の裏方をしていただきました。
 そして、ある日、その後週刊野田を発行されて活躍されることになる阿部博好さんのお宅での呑み会にお招きいただきました。ちょうどいまごろの季節だったでしょうか。阿部さんのお宅の庭で三人で呑んだのが、ダイナミックさんとの最初の呑み会でした。
 その年昭和57年の暮れになって、ダイナミックさんから清水公園の入口にあった初の家さんに招集され集まった、阿部さん、下河辺さん、そして自分の四人で、日本酒を飲む月例会を、幻の吟醸酒を飲む会と名付けて始めることになりました。もちろんダイナミックさんが会長でした。それから、紆余曲折はありましたが、延々とその会は続いています。32年目に入りました。
 東京に、吟醸酒ブームの火付け役の篠田次郎先生が主宰する「幻の日本酒を飲む会」があります。いつか、野田の会もその流れにつながる会と認知されるようになりました。
 自分たちの会では、大きな飲み会を何度かやりましたが、最大のものは日本酒を飲む会全国交流会でした。これもダイナミックさんの一言から始まったものでした。ダイナミックさんが篠田先生に野田で全国交流会をやりませんかと話しかけたことから実行することになったものでした。半信半疑だった篠田先生や東京の会の人たちも、野田の会の取り組み状況を見て、これならやれるとなって、平成6年4月に、市民会館庭園で全国からのお客様150人、銘酒30銘柄を集めて第1回全国交流会が行われました。その様子が全国紙にも紹介されるほどのイベントになりました。こういう企画力と、合わせて、人をまとめて実行するリーダーシップをダイナミックさんはお持ちでした。
 会の記念事業で作成した大吟醸「初桜」200本は完売することができました。また野田市制50周年記念事業として、平成12年には「醸造の街に発酵の粋を集めて」と銘打ったイベントを開催しましたが、その際にも、「野の風」と「美しい田」という大吟醸酒を200セット作成しました。二つ並べると野田になるというものですが、これも完売しました。地ビールも作成しました。自分たちでそばの栽培もしました。文集も発行しました。なかなかこういうことを考えつかないと思うのですが、ダイナミックさんは率先して企画し実行してきたのです。
 ダイナミックさんは最近の例会には出席することは稀になっていましたが、ビニールハウスグループの皆さんと制作されるドブロクを持って顔を出されることがありました。このドブロクを篠田先生に差し上げたことがあるのですが、これは本物だとの極めて高い評価をいただきました。
 それらのことを通じて、お酒そのものを楽しむ文化をこの野田に根付かせてくれたのでした。
 ダイナミックさんの周りには、いつも素敵な人がいました。きっとダイナミックさんの磁力に引き寄せられたのでしょうか。春日部高校野球部のチームメイトで草加市長や代議士をされた今井宏さんを始め、ビニールハウスグループの皆さん、野球やソフトボール、スキーなどのスポーツでおつきあいがあった皆さん、などなど。自分たちは、ダイナミックさんに出合えた仕合わせを心から感謝しています。ダイナミックさんありがとう。
 ダイナミックさんと二次会に行くと、必ず歌う歌がありました。河島英五の「野風増」です。その中に、「いいか男は生意気くらいがちょうどいい、いいか男は大きな夢を持て、野風増、野風増、男は夢を持て。」という詞があります。これを、まだ小さかった息子さんを思ってか、とても気合を入れて歌うのです。いまも思い出します。
 ダイナミックさん、最愛の奥様にはもう逢われましたか、先に旅立ったお仲間とは逢えましたか。いずれ自分たちもそちらの世界へ行くことになります。自分たちがそちらへ行ったときは、また、お付き合いください、お願いします。
 それまで、息子さんの成長ご発展を、またご縁のあった人たちを優しくお見守りくださるようお願いいたします。
 ダイナミックさん、お疲れ様でした。ゆっくりお休みください。
 心からご冥福をお祈りいたします。
 ダイナミックさんさようなら。
 平成25年8月31日