夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

人はなぜこの世に来たのか?

2018年02月01日 18時14分58秒 | 日記

何の気なしに古い写真を整理した、婚礼当日の若く美しかった妻の花嫁姿、幼児であった息子達の姿、旅行、・・・その時々の記憶が蘇り、しばし放心状態だった。そして突然閃いた!

・・・そうか!俺は感動を求めて旅に出て、この地球に来たのだ!!バカをやった日々、仕事上の板挟みに苦しんだ日々、借金取りの電話に戦々恐々とした日々、税務署に呼び出された日々、みんな過ぎてみれば懐かしい。

それから・・・妻や子供達や両親、親族、それらの人々に対して自分が如何に薄情者であったか、との思いが匕首のように心臓を刺し貫いた。


仏教について独断的解説

2018年02月01日 08時43分21秒 | 日記

南無釈迦牟尼仏、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経・・・と言う。【南無】とはどういうことか知って居るか?それをカタチで示せ、と言われたら君はどうするか?

・・・チベット仏教に五体投地というのがある、あれだよ。

つまり、阿弥陀仏に向かって、妙法蓮華経に向かって、【五体投地】する、要するに【自分自身を全て投げ出す】と言う事だ。阿弥陀仏に一切合切【お任せする】、妙なる法である蓮華経に総てを委ねる、というわけだ。

ここからは本願寺門信徒である拙者の立場上【南無阿弥陀仏】で説明しよう。南無妙法蓮華経については洞察したまえ。

阿弥陀仏とは何か考えたことあるか?浄土真宗の仏壇の一番奥まったところに【阿弥陀如来】の像がある。あれは【概念】を表している。あの像から四方八方に光が出ている姿をしているね。つまり【阿弥陀如来とは宇宙の根源的力を謂う】と【妄者】どもにピンと来させるようにああいう姿にしているわけだ。

では【仏】とは何かと言えば・・・【妄者】の対極にある【存在】だ。非常に解りやすく言えば【悟りを拓いた人】である。神さんの類ではない、ちゃんとニンベンがついてるだろう?!

では【悟り】とは何か?・・・

シャカ族の王であったシッダールタは王宮の中から下界を見て『世界には何故、生・老・病・死なる四苦や貧窮などの八苦があるのか?』と悩んだ。マジメな人だったんだな。そして愛児と妻を置いて王宮を出、修行者の群れに身を投じた。

かくして幾星霜、厳しい修行をしたが『ワカラナイ!』・・・気が付いて見ると既に老境近い激ヤセジジイになっている、何と空しい!。そんなある日、疲れ果てて沙羅双樹の樹蔭に坐りこんでしばし茫然自失。ふと気が付くと村の娘が冷たいミルクを持って来て供養した。彼はそれを飲んだ、炎熱に冷たいミルクは渇いたノドを通り疲れきった五体にしみわたった。その時彼は豁然と悟った!・・・『ああ、この世界、この人の世は何と美しい!このままで美しい、このままで極楽浄土、永遠の浄土などと言うものは幻想にすぎない、極楽とはこの地上生命のとある瞬間に花火のように輝くものなのだ、人生は美しい!』

こうして【釈迦】は【釈尊、釈迦牟尼】になった。

釈尊の悟りは遠い天竺から流砂を越えて中国に入り、海を渡って日本に入ったがその境地は少しも損なわれていなかった。曰く、【南無・阿弥陀仏】・・・『全宇宙の根源的力を悟った存在の言う処に一切を任せ、計らう事を放下する!』

日本仏教の行き着いた境地、それを【四苦八苦をしっかり握りしめ抱き付いて離さないでいながら四苦八苦から逃れたいと理不尽な事を言う妄者ども】を救い上げる為に、無学文盲煩悩具足の一般大衆の苦痛を和らげる為に、親鸞上人が説いたのは・・・『南無阿弥陀仏』と唱えれば如何なる悪人と雖も極楽往生できるんだよ!と言う、また別の言い方をすれば【煩悩具足の衆生済度こそが弥陀の本願】つまり『君たちを苦界から救い上げることこそが宇宙の存在意義なんだよ』との言うなれば【便法】だったわけである。

古く、越前の国は本願寺門徒の勢力が強かったところである。そこの五箇山なるところに【こきりこ】なる民謡がある。その一節に言う、『よろずの些細放下すれば竹の夜声の澄み渡る・・』【放下!】つまり四苦八苦、煩悩、欲心、来月の支払い、意のままにならない息子や娘(だいたい息子や娘を己の意のままに成そうと言うのが大間違いの傲慢不遜、人間存在についての知識も思索もない愚行なのであるが)、次々と襲い掛かる心配事、これら一切を『放て、考える事を止めよ』、やめて南無阿弥陀仏と言え、賢しらに図るな、そしたら物事は正しい位置に収まる、この世は本来浄土なのだ、と言うのが浄土真宗の悟りの境地である。

ではこれは釈尊や親鸞聖人の独断思い込みだろうか?いいやそうではない。先輩であるナザレの大工、イエスさんもこう言っている、『何を食べ、何を着ようかと思い患うのを止めなさい、天の父はあなたがたがこれらのものを必要としていることを知っておられるのです。髪の毛一筋までも数えられているのです、見なさい、雀一羽と雖も天の父の許しなしには地に落ちることはないのです』

またインドの聖者も言っている、『神さんが運転する汽車に乗って、何故重い荷物を抱えているのか?降ろしなさい』と。

では拙者の悟りと矛盾するだろうか?このブログの数日前に書いた、『人とは元々【念】だけの存在であってそれが居た本来の住処で【自ら演技者であって同時に観客でもある地上三次元世界】で、次に何を演ずるかとシナリオを選んでメークをし、衣装を着て・・つまり肉体を纏って・・仏教的に言えば袈裟して・・、地上舞台に登場し、扮する人物に成りきって演技する、演じ終わったら楽屋に下がる』と書いた。つまり人生は初めから決まっているのだ。そして演技はあなたの本質を向上させることはあっても損なうことはないのだ。だから【賢しらに思い煩って謀り事に振り回される】のはこっちの水たまりを嫌って跳んであっちのドブに落ちることなんだ。

閻魔大王、貴殿の秘密を喋ってしまって誠に畏れ入ります、平にご容赦!!