記念日
遠くで、サイレンが鳴っている。救急車のサイレンだ。鳴海孝輔《なるみこうすけ》はふと足を止め、眉をひそめた。救急車のサイレンは、嫌いだ。得体の知れない何者かに、大切なものを奪われる気がしてしまう。
母親も父親も、あのサイレンの音を聞いた後、孝輔の前から姿を消した。母は急病、父は不慮の事故、だった。母を失くしたのは、六歳の頃か。父が亡くなった時は、孝輔の大学卒業の前日だった。
(不吉な……)
孝輔は、額の汗を手で拭い、うつむいて顔を振った。……縁起でもない。何を考えているんだ、俺は。あれから、何度サイレンの音を聞いた? そして、何か不幸なことがあったのか? ――何もなかったではないか! 孝輔は大きな溜め息をつき、ゆっくり歩きはじめた。
その日は、孝輔にとって一〇回目の結婚記念日だった。たまには外で食事をしよう、と告げた時の、妻の嬉しそうな表情。妻・京《みやこ》の笑顔は、孝輔の心をほこほこと温める。
彼女との出逢いは、見合いだった。取引先の常務が、孝輔には食事会だと偽って、末娘の京と引き合わせたのだ。その時は見合いだと、孝輔は気付かなかった。常務とは、一、二度しか顔を合わせた事がない。しかも初対面の京は、どこで見初めたのか、すでに孝輔へ好意を寄せているらしかった。
当の孝輔は、三流大学出身。就職もなかなか決まらず、やっと入社した零細電子機器メーカーで一番年下の、冴えない営業マンだった。
何故?、と思っていた。思っているうちに、話だけがどんどん先に進んでいった。見合いからひと月後に、孝輔は常務の会社に引き抜かれた。週に一、二度、会社帰りに京と待ち合わせ、デートも重ねた。そして半年後には、京との婚約が整い、さらに半年後に結婚した。
仕事は苦しかった。
義父となった常務に容赦なく叩かれ、生え抜きの同僚たちにはやっかまれた。救いは、妻となった京の存在、だけだった。
結婚するまで、好きか嫌いかすら、わからなかった。新婚家庭は孝輔にとって、疲れきって寝に帰るだけの場所でしかなかった。京は、そんな孝輔に献身的に尽くす、慎ましい新妻だった。それに気付いた時から、孝輔の中に愛が芽生えた、と言っていい。
京に支えられて、孝輔は仕事でも頭角を現し一気にその実力を開花させた。
今や、三〇代の若さで部長職に上りつめた孝輔は、多忙を極めている。去年も一昨年も、仕事のため、まともに結婚記念日を祝うことが出来なかった。なのに、京は愚痴一つもこぼすことはない。むしろ、気遣われる。
「孝輔さん、無理しなくてもいいのよ」
今朝も今朝とて、孝輔は、京から心配顔で言われた。三ヶ月前から、今夜のためにスケジュールを遣り繰りしたのだ。今日は遅れることなく、京を喜ばせてやれる。
「大丈夫だよ、今年は節目なんだから」
そう答えると、京は出会った頃そのままの初々しさで頬を染め、笑みを深くする。それが可愛過ぎ、 行ってきますのキスが熱を帯びた。
「……孝輔さん、てば」
呼吸弾ませてキスを繰り返した身体を離すと、京はあのほっこりした満面の笑みで、
「行ってらっしゃいませ、何卒お気をつけて」
といつものように三指をついて深々と一礼した。
救急車のサイレンが、次第に近づいてくる。音階が、孝輔の神経を逆撫でした。
シ、ソ、シ、ソ、シ、ソ……。
死相、死相、死相……。
まさか、京に、何かあったら。冗談じゃない、そんなことがあったら、俺は世界中を呪ってやる。
シ、ソ、シ、ソ、シ、ソ……。
死相、死相、死相……。
若いカップルとすれ違った。一八〇センチ以上はありそうな逞しい男と、小柄で細い黒ずくめの女だ。
「ふふふっ、それって嫌ですよね、マジで嫌だ」
媚を含んだ、幼さの抜けない声で、男を見上げた女が笑っている。
当たり前だ、嫌に決まっているだろう、京に何かあるなんて。
(……いや、俺はさっきから何を考えているんだ?)
孝輔は、歩きながらネクタイを緩めた。首筋に浮いた汗を、ハンカチで拭う。いったいどうしたんだ? 俺は、何をそんなに神経質になっている?
昼食時の些細な――そして不可解な出来事が脳裏をよぎった。
午前中、取引先へ商談に出向いた帰り、孝輔は早めに昼食を済ませようと思った。贔屓にしている定食屋を覗いた。混んでいるらしく、店の前に行列が出来ている。最近行きつけになった蕎麦屋も同じだった。
結婚以来、通うこともなくなった、牛丼のチェーン店が空いていた。孝輔は何気なくその店に入った。牛丼・サラダセットを頼むと、一分と経たずに運ばれてきた。
生野菜サラダを口に運んだ時、カウンターの向かい側にいる老人と眼が合った。取り立てて特徴のある風貌ではない。一見、品のよさそうな小作りな老人である。孝輔を見つめたまま、ゆっくりとした動作で、もそもそと牛丼を食べている。孝輔は、目を逸らして牛丼を頬張った。続けて、味噌汁を啜る。
顔を上げると、老人はまだ孝輔を見つめていた。にやにやと笑っている。その笑い方が意味ありげに険を含んでいて、孝輔の癇に障った。
老人の隣りには、孫なのか、三、四歳くらいの幼女が座っている。前に置かれた、小皿に取り分けた牛丼は、老人が与えたものか。
が、彼女は食べてはおらず、ただ老人の隣りにつくねんと座っていた。無表情で、孝輔を見つめている。
嫌な感じがした。
丼をカウンターにおいて、孝輔は老人たちを見つめ返した。老人も幼女も、孝輔の視線を受け流すように目を逸らした。老人は黙々と牛丼を口に運び、幼女は水を飲んでいる。その後彼らは、孝輔を一瞥だにしなかった。
(気のせいか)
そう思いながら孝輔も、黙々と食事を再開し、食べ終えた。
「ごちそうさま」
「ありがとうございました」
カウンターから出口に向かう時、孝輔は老人と幼女を一瞥した。彼らは、孝輔に何の注意も払っていなかった。つい先刻、見つめていたこと自体がなかったかのように。
(やっぱり、気のせいか)
自動ドアが開いた時、ふいに幼い声が聞こえた。
…………れる?
何と言ったのかは、はっきりとはわからない。ただ、反射的に孝輔は振り返った。幼女と眼が合う。
ぞっとするような無表情が、すうっと笑顔に変わる。無邪気な笑顔だった。
それが、ひどく恐ろしかった。背筋に冷たい汗が流れ、鳥肌立つ思いがしながら、孝輔は店を出た。
あれは、何だったのだろう。
あの老人は。
幼い女の子は。
彼女は、何を言ったのか。
何も、わからない。
サイレンの音は止まない。
シ、ソ、シ、ソ、シ、ソ……。
死相。
勘弁してくれよ、と孝輔は思った。ドレミで聞くから、不吉な連想をするのだ。ドイツ語読みにしたら、どうだ? シはH(ハー)、ソはG(ゲー)。
H、G、H、G、H、G……
ハー、ゲー、ハー、ゲー、ハー、ゲー……。
(禿げ、か)
これはこれで、不吉か。生え際の後退を実感しつつある孝輔は、苦笑した。が、この連想で、思考の連鎖が止み、孝輔の神経は弛緩した。
大通りに出て、右に曲がり、交差点に向かう。京との待ち合わせ場所は、喫茶店「パヴァーヌ」。そこは、京とのデートの待ち合わせ場所だった。京は、いつも店の前で孝輔を待っていた。
「店に入って待っていればいいのに」
そう言うと、京はこう答えた。
「だって、孝輔さんに悪いもの」
……その時は、ちょっと面倒くさい女なのかな、と思った。今は、彼女のそんな気遣いが、身にしみるほどありがたい。きっと、今日も店の前に立って待っているに違いない。孝輔の歩調は、弾んで早まった。
救急車のサイレン。
H、G、H、G、H、G……。
交差点の手前で、突然、目の前に禿げ頭が出現した。孝輔は慌てて立ち止まった。足元が頼りなさそうな、痩せた老人だった。あと少し孝輔が気付くのが遅かったら、まともに衝突して老人に怪我を負わせたかもしれない。
安堵しながらも、否、安堵したからこそ、少し腹が立った。
が、禿げ頭の老人は、孝輔に何ら斟酌することなく、通りの向こう側を見つめて何事か呟いている。
どうして、店の中で待っていないんだ?
はっとして、孝輔は交差点の向こう側に眼を凝らした。パヴァーヌの前に、薄桃色のワンピース姿の、京の姿が見えた。
同時に、そのすぐ後ろにいる、品のよさそうな老人と、幼女の姿も。
(京……!)
不吉な思いが、孝輔の中で急速に膨らみ、弾けた。孝輔は、走った。京! と叫んでいた。
信号の青色が、点滅している。かまわず、孝輔は交差点に向かった。京は笑顔を浮かべ、小さく手を振る。救急車のサイレンが、すぐ近くに迫っていた。
H、G、H、G、H、G……。
シ、ソ、シ、ソ、シ、ソ……。
救急車、直進します、救急車、直進します。アナウンスが、響く。
孝輔の視線の先にある、京の笑顔がふいに激しく歪んだ。老人と幼女が、険のある笑顔を浮かべている。
「京、逃げろ!」
孝輔は叫んで、横断歩道へと走り出た。サイレンの音と、急ブレーキの音が交差して、交差点の喧騒をかき消した。
横断歩道を渡りきった先で、孝輔は立ちすくんでいた。悲鳴とざわめきが、うねっている。
目の前で、大型トレーラーが横転していた。その先で、形の歪んだ救急車が煙を上げている。……赤信号を直進してきた救急車に、大型トレーラーがまともに突っ込んだのだ。残骸と化している二つの車体は、パヴァーヌのわずか手前で止まっていた。
(京、は?)
孝輔は、ふらついた足取りで前に進んだ。女子高校生がふたり、両手を口に当てて泣き叫んでいる。
「嫌ぁ、嫌だぁー、何でよぉ、こんなの、嫌だぁー!」
「ぐちゃっ、て、いった、ぐちゃっ、て、音がしたよぉ!」
若いサラリーマンが数人、ふたりの前に立ちはだかって、惨状を見せまいとしていた。
まさか。
まさか、京が。
「あー、マジ、ぐっちゃぐちゃ、じゃん」
「すげえ、すげえよ、まじヤバい、っしょ」
鼻ピアスをした茶髪の痩せた男と、でっぷり太った黒ぶちの眼鏡の脂ぎった男が、携帯で写真を取り続けていた。ふたりとも、どす黒い笑顔で興奮しきっている。
「超スクープ、売れるかもよ!」
「俺、即ブログにアゲる!」
馬鹿野郎、何を考えているんだ。どっと怒りが込み上げた。
(京……?)
回りこんで、孝輔はパヴァーヌの前へと出る。座り込んだ放心状態の京の姿がそこにあった。
(京……!)
孝輔が歩み寄ろうとした瞬間、京は悲鳴を上げた。
嫌あああっ、孝輔さん!
京、俺はここだ!
孝輔は叫んだが。
京は這い蹲るように、二つの車体が接した部分へと身を動かした。孝輔は、再び立ちすくんだ。二つの車体の間に挟まれて、ぐったりとしている男の姿。ねっとりとした血にまみれた頭が歪んでいる。
孝輔さん、孝輔さん、嫌、孝輔さん、返事してぇ、嫌、嫌だあ!
京はワンピースを血に染めて、男の割れた頭を押さえて半狂乱となっていた。
助けて、誰か、助けてえ、……救急車、呼んで、早く、早くっ!
叫びながら京が、ワンピースの裾を引き千切り、包帯代わりに巻いている。
孝輔さんが死んじゃう、嫌、嫌、嫌あああああっ、孝輔さん、孝輔さんが死んじゃうよおおおっ!
孝輔は戸惑いながら、泣き叫んでいる京を抱きすくめようとした。……出来なかった。何故? 再度、京を抱こうとしたが、腕が京の体をすり抜けてしまう。
何故? 男の姿に、眼が止まる。
男の着ているスーツは、孝輔のお気に入りのものだった。転がっているビジネスバッグも、孝輔愛用のものだ。血まみれの顔が、鏡で見る自分の顔によく似ている気がした。
嘘だろう、そんなはずはない。
俺はここにいるじゃないか。
じゃあ、これは誰なんだ?
これは、俺なのか?
俺は、……俺は、死んだのか?
死んで、しまったのか?
血は争えないねぇ。
しわがれた声が、耳元に吐きかけられる。はっと振り返ると、牛丼屋で見かけた、あの老人だった。傍らには嬉しそうな笑顔の幼女が立っている。
君たちは、誰だ?
老人は、その問いには答えずに、例の意味ありげな笑みを浮かべた。
あんたは、関係なかったのに、さ。
意味がわからない。
ぱぱ。
幼女が跳ねるように飛びついてくる。
パパだって? 俺には、こんな子供は、いない。
でも、まあ、あんたが選んじまったんだからな。
老人は、にやにやと嗤いながら、事故の現場を振り返った。選んじまった? 意味が、わからない。
あんたの親父さん、事故で死んだだろ。あん時と、おんなじだ。
老人は、目を細めて遠くを見つめた。
父の死と、同じ?
そう、あんたの家の近くにあった、マンションの前だった。
そうだった、自宅近くのマンションの前で、父は事故に遭った。マンションの一〇階から、女の子が転落してきて、運悪く、下を通りかかった父を直撃したのだ。父だけでなく、転落した女の子も助からなかった、と後で聞いた。
運悪く、直撃したんじゃない。受け止めようとしたのさ、あんたの親父さんは。
老人は、ため息をついた。
どっちにしろ、その娘っ子は寿命だった。可愛そうに、母親にさんざん苛められていてさ。あの日、窓から投げ落とされた。そういう生まれつきだから、しょうがないんだがね。だが、あんたの親父さんは、寿命が尽きるにはまだまだ、だった。しかし、落ちてくる娘っ子を受け止めることを、選んじまったのさ。受け止めて助けられるはずはない、とわかっていたはずなんだがね。
目眩がした。
ふと、幼女に目が止まる。
もしかして、転落―いや、投げ落とされた女の子とは……。
まま、きらい。
幼女が笑顔を消して、救急車を振り返った。
彼女の体が、ふうっと揺らいで歪んだ。
手足が不自然な方向に曲がり、目を見開いたまま、舗道に叩きつけられた姿。
だから、ままも、ゆうなみたいに、なればいい。
優菜というのさ、生きていた頃の名前はね。今じゃ、戒名もない、迷える魂だ。
老人はまた、目を細めた。
母親は、ひどい女だったね。なのに、寿命はしこたま永いときている。だから、手を貸してやる気になった。
手を貸してやるって……?
孝輔は、唾を飲み込んで、恐る恐る老人に尋ねた。
その救急車には、母親が乗っていた。なに、ちょっとした病気だ、たいしたことはない。だが、つけこむには絶好の機会だった。
目も前の事故現場には、パトカーや新たな救急車、レスキュー隊が到着していた。
ちょっと、待て。母親を事故で殺すために、こんな大きな事故が起きる様に細工したのか? 大勢の人が巻き込まれるような。
巻き込んじゃ、いない。勝手に飛び込んだあんた以外は。
老人は、例の険のある笑みを片頬に浮かべた。
よく見てみなよ。
老人に言われて、孝輔ははじめて気付いた。トレーラーの運転手らしき男。救急隊員たち。誰もが、わずかな傷は負っているものの、自力で立って歩いていた。
が、ひしゃげた救急車の中から最後に運び出された女性は……。
ぐにゃりとしていて、すでに息が絶えているのは明らかだった。
そして、京。
トレーラーと救急車の間から引き出された孝輔にすがって、泣き続けている。
あんたのカミさんは、最初っから巻き込まれることはなかったのに。だが、あんたが自分から勝手に突っ込んできて。
結果、あんたが死んで、巻き込んだ形になっちまった。
そんな……、俺は、ただ京を守りたくて。
カミさんが危ないなんて勝手に思い込んだのは、あんただ。
老人は、事も無げに言った。
しかも、死神にのせられやがって、さ。
死に、神……?
ほれ、あんたの前に飛び出しただろう、禿げ頭のじじいが。
孝輔の脳裏に、あの足元のおぼつかない老人の声が蘇った。
どうして、店の中で待っていないんだ?
孝輔は、咆哮した。
嘘だ! そんなの、嘘だ! お前たち、みんなグルだろう?
孝輔はがっくりと膝を追って、うずくまった。
ぱぱ、泣かないで。ゆうなが、いっしょにいるよ。
幼女がしゃがんで、孝輔の頭を撫でた。
パパって……、どういうことだ。
あんたが、選んだんだろう。自分から絡んできて、この子に約束したじゃないか。
老人も幼女の隣りにしゃがんで、孝輔を見つめた。
あんたも、親父さん同様、この子と波長が合っているんだろうな。
ついでに、オレさまとも。
老人は、鼻で笑った。
牛丼屋で、絡んできたじゃないか。帰り際に約束したのを、忘れたのかい?
約束?
孝輔は、帰り際の幼女の声を、思い出した。
…………れる?
しかし、それは殆ど聞き取れなかった。ただ声が聞こえたから、つい振り返っただけで。
ゆうなの、ぱぱに、なってくれる?ってゆったよ。
幼女は、あどけなく答えた。
そして、あんたはこの子に頷いた。
老人が、止めを刺すように言った。
孝輔は絶句した。
こいつらは、この世の住人では、ない。何を言っても、通じない……!
涙が、こぼれた。
どうして? どうして、俺はこんな目に合うんだ? 大切な、結婚記念日なのに、何でこんなことに。
ゆうなも、きょうは、きねんび、だよ。ままに、しかえしした、きねんび。
幼女は、嬉しそうに笑った。
その顔を、孝輔は呆然と見つめていた。
……孝輔さん、孝輔さん、……いやあああっ! 京の泣き叫ぶ声が、遠くで聞こえた。ああ。京。みやこ……!
だいじょぶ、あのひと、じゅみょう、ながいし。
幼女は、ぴょんと立ち上がって投げ捨てるように言った。
さて、と。オレの役目も、ここまでだ。
老人もむっくりと立ち上がる。
待て。待ってくれ、俺は、まだ死にたくない。
孝輔は、身を起こすと老人にすがった。
あんた、この子に手を貸したって言っていただろう。俺にも手を貸してくれ。まだ、俺は死にたくない。
あんた、何か勘違いしているね。
老人は唇を曲げて、言い捨てた。
オレは、ただの水先案内人だ。死を指し示すことは出来ても、生を指し示すことなんてできねえ。
おい、そんな勝手なことを言わないでくれ。
なおもすがる孝輔を、老人は意外にも力強く突き放した。
勝手なことを言っているのは、あんただ。あんたにできることは、もうたったひとつだけだ。いい加減、覚悟しなよ。
老人の姿が緩やかに透き通っていく。
そして、光の粒と化し、天に昇っていった。
孝輔は、幼女と取り残された。幼女の小さな手が、孝輔の手を取る。
きねんび、ふえた。
幼い声が弾んでいる。
記念日?
そう、ぱぱが、できたきねんび。……ゆうなが、ずっといっしょに、いてあげるから。
孝輔は呆然とした思いのまま、事故現場を振り返った。もう、京の姿はなかった。
じゃあ、いこう、ぱぱっ。
孝輔は無気力に、幼女に尋ね返した。
行くって……、どこへ?
おじいちゃんが、ゆってたの。あかるい、ほうこうに、いけばいいって。
そう言って、幼女は指差した方向は。かすかに光ってはいるものの。なにやら揺らめいていて、少しも明るい方向には、みえない。
もどれるところは、どこにも、ないよ。
幼女は、あどけなく笑って、言った。
さあ、ぱぱ、いっしょにいこう。
孝輔は、幼女――いや、今や養女となった優菜と手を繋いだまま、呆然と空を仰いだ。
written
:2010.07.??.〜25.
rewritten
:2017.03.20.〜24./07.10.〜07.19.
**
遠くで、サイレンが鳴っている。救急車のサイレンだ。鳴海孝輔《なるみこうすけ》はふと足を止め、眉をひそめた。救急車のサイレンは、嫌いだ。得体の知れない何者かに、大切なものを奪われる気がしてしまう。
母親も父親も、あのサイレンの音を聞いた後、孝輔の前から姿を消した。母は急病、父は不慮の事故、だった。母を失くしたのは、六歳の頃か。父が亡くなった時は、孝輔の大学卒業の前日だった。
(不吉な……)
孝輔は、額の汗を手で拭い、うつむいて顔を振った。……縁起でもない。何を考えているんだ、俺は。あれから、何度サイレンの音を聞いた? そして、何か不幸なことがあったのか? ――何もなかったではないか! 孝輔は大きな溜め息をつき、ゆっくり歩きはじめた。
その日は、孝輔にとって一〇回目の結婚記念日だった。たまには外で食事をしよう、と告げた時の、妻の嬉しそうな表情。妻・京《みやこ》の笑顔は、孝輔の心をほこほこと温める。
彼女との出逢いは、見合いだった。取引先の常務が、孝輔には食事会だと偽って、末娘の京と引き合わせたのだ。その時は見合いだと、孝輔は気付かなかった。常務とは、一、二度しか顔を合わせた事がない。しかも初対面の京は、どこで見初めたのか、すでに孝輔へ好意を寄せているらしかった。
当の孝輔は、三流大学出身。就職もなかなか決まらず、やっと入社した零細電子機器メーカーで一番年下の、冴えない営業マンだった。
何故?、と思っていた。思っているうちに、話だけがどんどん先に進んでいった。見合いからひと月後に、孝輔は常務の会社に引き抜かれた。週に一、二度、会社帰りに京と待ち合わせ、デートも重ねた。そして半年後には、京との婚約が整い、さらに半年後に結婚した。
仕事は苦しかった。
義父となった常務に容赦なく叩かれ、生え抜きの同僚たちにはやっかまれた。救いは、妻となった京の存在、だけだった。
結婚するまで、好きか嫌いかすら、わからなかった。新婚家庭は孝輔にとって、疲れきって寝に帰るだけの場所でしかなかった。京は、そんな孝輔に献身的に尽くす、慎ましい新妻だった。それに気付いた時から、孝輔の中に愛が芽生えた、と言っていい。
京に支えられて、孝輔は仕事でも頭角を現し一気にその実力を開花させた。
今や、三〇代の若さで部長職に上りつめた孝輔は、多忙を極めている。去年も一昨年も、仕事のため、まともに結婚記念日を祝うことが出来なかった。なのに、京は愚痴一つもこぼすことはない。むしろ、気遣われる。
「孝輔さん、無理しなくてもいいのよ」
今朝も今朝とて、孝輔は、京から心配顔で言われた。三ヶ月前から、今夜のためにスケジュールを遣り繰りしたのだ。今日は遅れることなく、京を喜ばせてやれる。
「大丈夫だよ、今年は節目なんだから」
そう答えると、京は出会った頃そのままの初々しさで頬を染め、笑みを深くする。それが可愛過ぎ、 行ってきますのキスが熱を帯びた。
「……孝輔さん、てば」
呼吸弾ませてキスを繰り返した身体を離すと、京はあのほっこりした満面の笑みで、
「行ってらっしゃいませ、何卒お気をつけて」
といつものように三指をついて深々と一礼した。
救急車のサイレンが、次第に近づいてくる。音階が、孝輔の神経を逆撫でした。
シ、ソ、シ、ソ、シ、ソ……。
死相、死相、死相……。
まさか、京に、何かあったら。冗談じゃない、そんなことがあったら、俺は世界中を呪ってやる。
シ、ソ、シ、ソ、シ、ソ……。
死相、死相、死相……。
若いカップルとすれ違った。一八〇センチ以上はありそうな逞しい男と、小柄で細い黒ずくめの女だ。
「ふふふっ、それって嫌ですよね、マジで嫌だ」
媚を含んだ、幼さの抜けない声で、男を見上げた女が笑っている。
当たり前だ、嫌に決まっているだろう、京に何かあるなんて。
(……いや、俺はさっきから何を考えているんだ?)
孝輔は、歩きながらネクタイを緩めた。首筋に浮いた汗を、ハンカチで拭う。いったいどうしたんだ? 俺は、何をそんなに神経質になっている?
昼食時の些細な――そして不可解な出来事が脳裏をよぎった。
午前中、取引先へ商談に出向いた帰り、孝輔は早めに昼食を済ませようと思った。贔屓にしている定食屋を覗いた。混んでいるらしく、店の前に行列が出来ている。最近行きつけになった蕎麦屋も同じだった。
結婚以来、通うこともなくなった、牛丼のチェーン店が空いていた。孝輔は何気なくその店に入った。牛丼・サラダセットを頼むと、一分と経たずに運ばれてきた。
生野菜サラダを口に運んだ時、カウンターの向かい側にいる老人と眼が合った。取り立てて特徴のある風貌ではない。一見、品のよさそうな小作りな老人である。孝輔を見つめたまま、ゆっくりとした動作で、もそもそと牛丼を食べている。孝輔は、目を逸らして牛丼を頬張った。続けて、味噌汁を啜る。
顔を上げると、老人はまだ孝輔を見つめていた。にやにやと笑っている。その笑い方が意味ありげに険を含んでいて、孝輔の癇に障った。
老人の隣りには、孫なのか、三、四歳くらいの幼女が座っている。前に置かれた、小皿に取り分けた牛丼は、老人が与えたものか。
が、彼女は食べてはおらず、ただ老人の隣りにつくねんと座っていた。無表情で、孝輔を見つめている。
嫌な感じがした。
丼をカウンターにおいて、孝輔は老人たちを見つめ返した。老人も幼女も、孝輔の視線を受け流すように目を逸らした。老人は黙々と牛丼を口に運び、幼女は水を飲んでいる。その後彼らは、孝輔を一瞥だにしなかった。
(気のせいか)
そう思いながら孝輔も、黙々と食事を再開し、食べ終えた。
「ごちそうさま」
「ありがとうございました」
カウンターから出口に向かう時、孝輔は老人と幼女を一瞥した。彼らは、孝輔に何の注意も払っていなかった。つい先刻、見つめていたこと自体がなかったかのように。
(やっぱり、気のせいか)
自動ドアが開いた時、ふいに幼い声が聞こえた。
…………れる?
何と言ったのかは、はっきりとはわからない。ただ、反射的に孝輔は振り返った。幼女と眼が合う。
ぞっとするような無表情が、すうっと笑顔に変わる。無邪気な笑顔だった。
それが、ひどく恐ろしかった。背筋に冷たい汗が流れ、鳥肌立つ思いがしながら、孝輔は店を出た。
あれは、何だったのだろう。
あの老人は。
幼い女の子は。
彼女は、何を言ったのか。
何も、わからない。
サイレンの音は止まない。
シ、ソ、シ、ソ、シ、ソ……。
死相。
勘弁してくれよ、と孝輔は思った。ドレミで聞くから、不吉な連想をするのだ。ドイツ語読みにしたら、どうだ? シはH(ハー)、ソはG(ゲー)。
H、G、H、G、H、G……
ハー、ゲー、ハー、ゲー、ハー、ゲー……。
(禿げ、か)
これはこれで、不吉か。生え際の後退を実感しつつある孝輔は、苦笑した。が、この連想で、思考の連鎖が止み、孝輔の神経は弛緩した。
大通りに出て、右に曲がり、交差点に向かう。京との待ち合わせ場所は、喫茶店「パヴァーヌ」。そこは、京とのデートの待ち合わせ場所だった。京は、いつも店の前で孝輔を待っていた。
「店に入って待っていればいいのに」
そう言うと、京はこう答えた。
「だって、孝輔さんに悪いもの」
……その時は、ちょっと面倒くさい女なのかな、と思った。今は、彼女のそんな気遣いが、身にしみるほどありがたい。きっと、今日も店の前に立って待っているに違いない。孝輔の歩調は、弾んで早まった。
救急車のサイレン。
H、G、H、G、H、G……。
交差点の手前で、突然、目の前に禿げ頭が出現した。孝輔は慌てて立ち止まった。足元が頼りなさそうな、痩せた老人だった。あと少し孝輔が気付くのが遅かったら、まともに衝突して老人に怪我を負わせたかもしれない。
安堵しながらも、否、安堵したからこそ、少し腹が立った。
が、禿げ頭の老人は、孝輔に何ら斟酌することなく、通りの向こう側を見つめて何事か呟いている。
どうして、店の中で待っていないんだ?
はっとして、孝輔は交差点の向こう側に眼を凝らした。パヴァーヌの前に、薄桃色のワンピース姿の、京の姿が見えた。
同時に、そのすぐ後ろにいる、品のよさそうな老人と、幼女の姿も。
(京……!)
不吉な思いが、孝輔の中で急速に膨らみ、弾けた。孝輔は、走った。京! と叫んでいた。
信号の青色が、点滅している。かまわず、孝輔は交差点に向かった。京は笑顔を浮かべ、小さく手を振る。救急車のサイレンが、すぐ近くに迫っていた。
H、G、H、G、H、G……。
シ、ソ、シ、ソ、シ、ソ……。
救急車、直進します、救急車、直進します。アナウンスが、響く。
孝輔の視線の先にある、京の笑顔がふいに激しく歪んだ。老人と幼女が、険のある笑顔を浮かべている。
「京、逃げろ!」
孝輔は叫んで、横断歩道へと走り出た。サイレンの音と、急ブレーキの音が交差して、交差点の喧騒をかき消した。
横断歩道を渡りきった先で、孝輔は立ちすくんでいた。悲鳴とざわめきが、うねっている。
目の前で、大型トレーラーが横転していた。その先で、形の歪んだ救急車が煙を上げている。……赤信号を直進してきた救急車に、大型トレーラーがまともに突っ込んだのだ。残骸と化している二つの車体は、パヴァーヌのわずか手前で止まっていた。
(京、は?)
孝輔は、ふらついた足取りで前に進んだ。女子高校生がふたり、両手を口に当てて泣き叫んでいる。
「嫌ぁ、嫌だぁー、何でよぉ、こんなの、嫌だぁー!」
「ぐちゃっ、て、いった、ぐちゃっ、て、音がしたよぉ!」
若いサラリーマンが数人、ふたりの前に立ちはだかって、惨状を見せまいとしていた。
まさか。
まさか、京が。
「あー、マジ、ぐっちゃぐちゃ、じゃん」
「すげえ、すげえよ、まじヤバい、っしょ」
鼻ピアスをした茶髪の痩せた男と、でっぷり太った黒ぶちの眼鏡の脂ぎった男が、携帯で写真を取り続けていた。ふたりとも、どす黒い笑顔で興奮しきっている。
「超スクープ、売れるかもよ!」
「俺、即ブログにアゲる!」
馬鹿野郎、何を考えているんだ。どっと怒りが込み上げた。
(京……?)
回りこんで、孝輔はパヴァーヌの前へと出る。座り込んだ放心状態の京の姿がそこにあった。
(京……!)
孝輔が歩み寄ろうとした瞬間、京は悲鳴を上げた。
嫌あああっ、孝輔さん!
京、俺はここだ!
孝輔は叫んだが。
京は這い蹲るように、二つの車体が接した部分へと身を動かした。孝輔は、再び立ちすくんだ。二つの車体の間に挟まれて、ぐったりとしている男の姿。ねっとりとした血にまみれた頭が歪んでいる。
孝輔さん、孝輔さん、嫌、孝輔さん、返事してぇ、嫌、嫌だあ!
京はワンピースを血に染めて、男の割れた頭を押さえて半狂乱となっていた。
助けて、誰か、助けてえ、……救急車、呼んで、早く、早くっ!
叫びながら京が、ワンピースの裾を引き千切り、包帯代わりに巻いている。
孝輔さんが死んじゃう、嫌、嫌、嫌あああああっ、孝輔さん、孝輔さんが死んじゃうよおおおっ!
孝輔は戸惑いながら、泣き叫んでいる京を抱きすくめようとした。……出来なかった。何故? 再度、京を抱こうとしたが、腕が京の体をすり抜けてしまう。
何故? 男の姿に、眼が止まる。
男の着ているスーツは、孝輔のお気に入りのものだった。転がっているビジネスバッグも、孝輔愛用のものだ。血まみれの顔が、鏡で見る自分の顔によく似ている気がした。
嘘だろう、そんなはずはない。
俺はここにいるじゃないか。
じゃあ、これは誰なんだ?
これは、俺なのか?
俺は、……俺は、死んだのか?
死んで、しまったのか?
血は争えないねぇ。
しわがれた声が、耳元に吐きかけられる。はっと振り返ると、牛丼屋で見かけた、あの老人だった。傍らには嬉しそうな笑顔の幼女が立っている。
君たちは、誰だ?
老人は、その問いには答えずに、例の意味ありげな笑みを浮かべた。
あんたは、関係なかったのに、さ。
意味がわからない。
ぱぱ。
幼女が跳ねるように飛びついてくる。
パパだって? 俺には、こんな子供は、いない。
でも、まあ、あんたが選んじまったんだからな。
老人は、にやにやと嗤いながら、事故の現場を振り返った。選んじまった? 意味が、わからない。
あんたの親父さん、事故で死んだだろ。あん時と、おんなじだ。
老人は、目を細めて遠くを見つめた。
父の死と、同じ?
そう、あんたの家の近くにあった、マンションの前だった。
そうだった、自宅近くのマンションの前で、父は事故に遭った。マンションの一〇階から、女の子が転落してきて、運悪く、下を通りかかった父を直撃したのだ。父だけでなく、転落した女の子も助からなかった、と後で聞いた。
運悪く、直撃したんじゃない。受け止めようとしたのさ、あんたの親父さんは。
老人は、ため息をついた。
どっちにしろ、その娘っ子は寿命だった。可愛そうに、母親にさんざん苛められていてさ。あの日、窓から投げ落とされた。そういう生まれつきだから、しょうがないんだがね。だが、あんたの親父さんは、寿命が尽きるにはまだまだ、だった。しかし、落ちてくる娘っ子を受け止めることを、選んじまったのさ。受け止めて助けられるはずはない、とわかっていたはずなんだがね。
目眩がした。
ふと、幼女に目が止まる。
もしかして、転落―いや、投げ落とされた女の子とは……。
まま、きらい。
幼女が笑顔を消して、救急車を振り返った。
彼女の体が、ふうっと揺らいで歪んだ。
手足が不自然な方向に曲がり、目を見開いたまま、舗道に叩きつけられた姿。
だから、ままも、ゆうなみたいに、なればいい。
優菜というのさ、生きていた頃の名前はね。今じゃ、戒名もない、迷える魂だ。
老人はまた、目を細めた。
母親は、ひどい女だったね。なのに、寿命はしこたま永いときている。だから、手を貸してやる気になった。
手を貸してやるって……?
孝輔は、唾を飲み込んで、恐る恐る老人に尋ねた。
その救急車には、母親が乗っていた。なに、ちょっとした病気だ、たいしたことはない。だが、つけこむには絶好の機会だった。
目も前の事故現場には、パトカーや新たな救急車、レスキュー隊が到着していた。
ちょっと、待て。母親を事故で殺すために、こんな大きな事故が起きる様に細工したのか? 大勢の人が巻き込まれるような。
巻き込んじゃ、いない。勝手に飛び込んだあんた以外は。
老人は、例の険のある笑みを片頬に浮かべた。
よく見てみなよ。
老人に言われて、孝輔ははじめて気付いた。トレーラーの運転手らしき男。救急隊員たち。誰もが、わずかな傷は負っているものの、自力で立って歩いていた。
が、ひしゃげた救急車の中から最後に運び出された女性は……。
ぐにゃりとしていて、すでに息が絶えているのは明らかだった。
そして、京。
トレーラーと救急車の間から引き出された孝輔にすがって、泣き続けている。
あんたのカミさんは、最初っから巻き込まれることはなかったのに。だが、あんたが自分から勝手に突っ込んできて。
結果、あんたが死んで、巻き込んだ形になっちまった。
そんな……、俺は、ただ京を守りたくて。
カミさんが危ないなんて勝手に思い込んだのは、あんただ。
老人は、事も無げに言った。
しかも、死神にのせられやがって、さ。
死に、神……?
ほれ、あんたの前に飛び出しただろう、禿げ頭のじじいが。
孝輔の脳裏に、あの足元のおぼつかない老人の声が蘇った。
どうして、店の中で待っていないんだ?
孝輔は、咆哮した。
嘘だ! そんなの、嘘だ! お前たち、みんなグルだろう?
孝輔はがっくりと膝を追って、うずくまった。
ぱぱ、泣かないで。ゆうなが、いっしょにいるよ。
幼女がしゃがんで、孝輔の頭を撫でた。
パパって……、どういうことだ。
あんたが、選んだんだろう。自分から絡んできて、この子に約束したじゃないか。
老人も幼女の隣りにしゃがんで、孝輔を見つめた。
あんたも、親父さん同様、この子と波長が合っているんだろうな。
ついでに、オレさまとも。
老人は、鼻で笑った。
牛丼屋で、絡んできたじゃないか。帰り際に約束したのを、忘れたのかい?
約束?
孝輔は、帰り際の幼女の声を、思い出した。
…………れる?
しかし、それは殆ど聞き取れなかった。ただ声が聞こえたから、つい振り返っただけで。
ゆうなの、ぱぱに、なってくれる?ってゆったよ。
幼女は、あどけなく答えた。
そして、あんたはこの子に頷いた。
老人が、止めを刺すように言った。
孝輔は絶句した。
こいつらは、この世の住人では、ない。何を言っても、通じない……!
涙が、こぼれた。
どうして? どうして、俺はこんな目に合うんだ? 大切な、結婚記念日なのに、何でこんなことに。
ゆうなも、きょうは、きねんび、だよ。ままに、しかえしした、きねんび。
幼女は、嬉しそうに笑った。
その顔を、孝輔は呆然と見つめていた。
……孝輔さん、孝輔さん、……いやあああっ! 京の泣き叫ぶ声が、遠くで聞こえた。ああ。京。みやこ……!
だいじょぶ、あのひと、じゅみょう、ながいし。
幼女は、ぴょんと立ち上がって投げ捨てるように言った。
さて、と。オレの役目も、ここまでだ。
老人もむっくりと立ち上がる。
待て。待ってくれ、俺は、まだ死にたくない。
孝輔は、身を起こすと老人にすがった。
あんた、この子に手を貸したって言っていただろう。俺にも手を貸してくれ。まだ、俺は死にたくない。
あんた、何か勘違いしているね。
老人は唇を曲げて、言い捨てた。
オレは、ただの水先案内人だ。死を指し示すことは出来ても、生を指し示すことなんてできねえ。
おい、そんな勝手なことを言わないでくれ。
なおもすがる孝輔を、老人は意外にも力強く突き放した。
勝手なことを言っているのは、あんただ。あんたにできることは、もうたったひとつだけだ。いい加減、覚悟しなよ。
老人の姿が緩やかに透き通っていく。
そして、光の粒と化し、天に昇っていった。
孝輔は、幼女と取り残された。幼女の小さな手が、孝輔の手を取る。
きねんび、ふえた。
幼い声が弾んでいる。
記念日?
そう、ぱぱが、できたきねんび。……ゆうなが、ずっといっしょに、いてあげるから。
孝輔は呆然とした思いのまま、事故現場を振り返った。もう、京の姿はなかった。
じゃあ、いこう、ぱぱっ。
孝輔は無気力に、幼女に尋ね返した。
行くって……、どこへ?
おじいちゃんが、ゆってたの。あかるい、ほうこうに、いけばいいって。
そう言って、幼女は指差した方向は。かすかに光ってはいるものの。なにやら揺らめいていて、少しも明るい方向には、みえない。
もどれるところは、どこにも、ないよ。
幼女は、あどけなく笑って、言った。
さあ、ぱぱ、いっしょにいこう。
孝輔は、幼女――いや、今や養女となった優菜と手を繋いだまま、呆然と空を仰いだ。
written
:2010.07.??.〜25.
rewritten
:2017.03.20.〜24./07.10.〜07.19.
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