人は有限人類は・・・

2007-11-24 23:27:20 | 日記・エッセイ・コラム

な~んて大そうなタイトルを書いたすぐ後に眠ってしまい、そのままタイトルを書いたことすら忘れていた。いったいこのタイトルはなんだ!! と思ってくれた読者のために、焼酎のお湯割りを飲みながら今夜は書きなぐってみようと思います。

私は幼い子供の頃死ぬのがとても怖かった。さらに父、母といつか死に別れる日がやってくるかと思うと不安になり限りなく憂鬱になった。 そんなことを四六時中考えていたので、私はきっと暗い暗い性格だったのだろう。 小さい子供は誰でもそんなことを考えるものではないか?と思って息子たちが6,7歳になったころに「いつか死んでしまうことを考えると暗い気持ちにならないか?」と聞いてみたが、あまり反応がなかった。 (息子たちは、一体なんということを言う父親か!と思っただろうか?) こいつらは気楽でいいなと思った。 

そのうち思春期をむかえそして大人になったが、私はいつも「死」と言うものを意識していた。ただ「死」に対しての考え方が少しずつ変化した。  いつまでも楽しく生きていたいのに、いつかは必ず「死」をむかえなくてはならない自分がいる。この状況は実に「不条理」 実存的状況である。 どうせいつかは死んでしまうのだから、すべてが空しいと思うこともよくあったが、アルベール・カミュのシーシュポスの神話にでてくる 岩を山頂まで運びあげる罰をうけた男のように 私は「死すべき運命」を恨みながらしかし目を背けることなく常に「死」と向き合ってきた。 (と書けば、少し嘘が入るか・・・・)

最近とあるブログで「どうせ死ぬのに、なんで生まれてくるのだろう」というタイトルを見かけたら、なるほどと思うことが書かれていた。 以下 ブログ 凡夫の哲学(http://www.journey-k.com/~riku/index.html)より引用

・・・生物学的な観点からみると、「死」については最近『アポトーシス』という考え方が理にかなっているとされてきている。

『アポトーシス』とは、簡単にいえば「生物個体の生命を維持するために制御されて起こる細胞死」のことである。
 つまり、生命を保つために人間の細胞は日々新しく生まれているが、細胞が新しく生まれるためには、古い細胞は死ななければならないのである。古い細胞が死ななければ、人間は人間の形態を保つことができなくなる。そのバランスが狂ってしまったのがガン細胞だ。ガン細胞は不死なのである。不死であるがために、人間の生命活動を阻害するのだ。

 そのシステムを人類というスパンに拡大して考えてみると、人類が生き延びるためには新しい人が生まれる必要があり、そのためには古い人(老人)は死ななければならないということになる。
 新しい人を生むために、人類は男と女に分かれて様々な組み合わせで生殖を繰り返している。なぜかというと、なるべく遺伝子の組み合わせをを多様にしておいた方が、どんな環境の変化が起ころうとも適応できる可能性が増えるからである。
 つまり、世代交代を頻繁に繰り返した方が、人類が発展できる可能性が大きくなるというわけだ。
人類を発展させるために、人類は「わたしの死」を選んだのだ。つまり、わたしは人類のために死ぬというわけだ。「ああそうだったのね」と納得したいところだが、わたしはどうしても納得できないのである ・・・ 引用終わり

個としての人の時間は有限であるが、人類は未来永劫(かどうかはわからないが)に続くのである。 フム・・・

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里の秋

2007-11-11 23:08:22 | 日記・エッセイ・コラム

土曜日の朝早く母を助手席に乗せ、引越し荷物を満載した車は一路西へと向かった。 渋滞もなく昼過ぎには京都まで辿り着けた。 ここまで来れば和歌山は近い。 母と京都に来る機会はもう二度とないだろうと思い、いつものようにフラリと京都南のインターを下りていた。昔私は京都に一年間住んでいたことがあるので、多少の土地勘はある。 鴨川沿いに北上して御池通りの駐車場に車を停め川沿いの店で京料理を食べた。小皿に盛られたちまちまとしたボリュームのない料理は食の細い母にはちょうどよかった。 Kamo小春日和の京都の街には黄金色のやさしい陽ざしがそそいでいた。 Toji (写真:御池大橋からの鴨川、 東寺)

日が暮れる頃山里の家に到着。早速ご近所に母が戻ってきたことを報告しに行った。 皆口々に「よく戻ってきたね!」と大歓迎をうけた。 この先どういうことになるか判らないが、母にとっては気心の知れた家族のようなご近所さんと一緒に楽しい日々を過ごすのが一番幸せであることを確信した。 

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帰り支度

2007-11-02 01:34:36 | 日記・エッセイ・コラム

横浜のマンションを引き払うために母が戻ってきた。 いつもそうであるが、田舎からもどったときの母は元気だ。 知り合いも多くない閉塞感のあるこのマンションでの暮らしは、田舎の生活が身についたものにとって、所詮無理な話だった。 もし妻や子供たちを含めた私の家族との同居を始めていたならどうなっていただろうか? 上手くいっていたかもしれないが、話がもっと複雑になっていたかも知れない。 少なくとも良かれと思って変化を起こしたのは間違いだったことは確かである。

元いた場所に戻してやるのが、母にとって一番幸せだろうと、姉も神経内科の医者も言っている。 本人も田舎に戻りたいと思っているようだ。 再び老人の一人暮らしになるが、家族のようなご近所の人たちに世話になりながら幸せな日々を一日でも長く持って欲しいと願う。 

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