Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

郡境域の実感

2006-07-31 08:10:22 | ひとから学ぶ
 郡境域の意識ということを先日も触れたが、ここに具体的なことをひとつ例にとってみる。

 信濃毎日新聞社が発行している地域の無料の新聞がある。「週刊いいだ」あるいは「週刊いな」という新聞である。普通の新聞の半分の版で、ページ数は最近号をみると「週刊いな」は8ページ立て、「週刊いいだ」は12ページ立てである。どちらも基本的なスタイルは似たようなもので、以前のものはもっとよく似ていたが、最近のものを見る限り少し雰囲気は変えてある。編集している会社が違うのだから違って当たり前なのだが、以前は同じ会社が作っているのかと思うほどよく似ていた。

 このふたつの新聞はそれぞれ新聞の名前の通り、「いな」は伊那市を中心とした上伊那郡をエリアとして、「いいだ」は飯田市を中心とした下伊那郡をエリアとしている。発行部数はほぼ同じくらいであるが、同紙には配布エリアというものが記されている。普通なら上伊那郡と下伊那郡に明確に分離されれば良いものなのだろうが、実は重複しているエリアがある。最近号の配布エリアによると、「週刊いいだ」には飯島町の一部と中川村の一部に配布しているとある。両者は上伊那郡である。「一部」とあるからその一部とはどこなのだ、と興味も湧くが、詳細はわからない。わざわざ配布エリアを明示するのにどういう意図があるのか、と考えたりする。いっぽう「週刊いな」には下伊那郡内のエリアに配布しているような明記はないが、実際は下伊那郡松川町まで配布されている(一部地域なのか全域なのかはわからないが)。こうしてみると、郡境域の隣接地には、両者が配布されているわけだ。そしてわが家はそのエリアにあるから、両者が新聞に入ってくる。前述したように信濃毎日新聞社が発行元だから、同紙を購読している人に無料配布されているのだろうが、なぜエリアが重複するのか、ということになる。実はこれは簡単なことで、新聞店のエリアに関係しいるようだ。地形上から新聞配達のエリアを分けたら、上下伊那の郡境は、たまたま一つのエリアに入っていた、程度のことなのだとは思う。

 当初こうした重複エリアのことを知ったとき、昭和の合併によって上下伊那の郡境が変更されたことがまだまだ尾を引いていて、そういうことに配慮されて重複しているのだろう、程度に思っていたものだ。しかし、現実はそんなことが理由ではなかったのだろう、と最近は思っている。

 これらの新聞は週刊であるが、別に「月刊かみいな」という新聞もある。その名からして上伊那郡をエリアとした新聞なのだろうが、発行部数が「週刊いな」に比較すると1.5倍ある。おそらく信濃毎日新聞の購読者以外の新聞を購読している人にも配布されているのだろう。68ページ立てという分厚い新聞で、これもまた無料である。この新聞もまた、配布エリアとして松川町がエリアになっている。細かい話ではあるが、「週刊いな」は配布エリアとして岡谷市川岸の一部が明記されているが、この「月刊かみいな」には川岸は明記されていない。実際のところはどうなのかわからないが、ほかの隣接地よりも上下伊那郡境域が、曖昧な世界であることがうかがえる。

 さて、両紙が配布されるということは儲けたような気がする。両地域の情報がそこにはある。どちらにも距離的に似かよっているものがあるから、そうした情報を与える側も、郡境域という意識ではなく、コマーシャルエリアとして捉えているだけなのかもしれない。しかし、現実的にそこに暮らしている人たちの気持ちは、そんな単純なものではなくなる。それが人の心なのである。
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ツマグロヒョウモンその弐

2006-07-30 09:34:12 | 自然から学ぶ


 昨年ツマグロヒョウモンに触れたが、今年もツマグロヒョウモンが盛んに飛んでいる。このチョウ、かつては長野県内では珍しいチョウであったが、地球温暖化のせいだろうか、生息域を北へ広げている。とくに長野県では冬を越せないといわれていたものの、越冬したという報告が多い。「伊那谷自然友の会報」の最新号126号によると、1999年に井原道夫先生が下伊那での越冬を確認し、2004、2005年と上伊那でその飛翔が多く見られ、この冬に上伊那でも越冬したことが確認されたという。

 ということで珍しいチョウではないものの、かつては長野県では少なかったということで、「天竜川上流の主要な昆虫類」の中では、「貴重な昆虫」の仲間にこのツマグロヒョウモンが加わっているのだ。同じようなチョウにクロコノマチョウがあるといい、このチョウは、1960年ころには南木曽町や天龍村、泰阜村で6個体しか採集されなかったようだ。1980年から天龍村を中心にたびたび確認されるようになって、現在では下伊那全域に分布するようになった。チョウばかりではなく、トンボやスズムシの仲間などにもこうした分布域の北進が進んでいるようだ。

 そういえば今では獣害の話題にものぼるハクビシンは、かつては長野県内では大変珍しく、やはり天竜村でその姿を始めて目撃されたという。県の天然記念物にもなっていたのだから驚くとともに、当時はその生態など情報が乏しかったのだろうか。「珍しい」という言葉に踊らされてしまってはいけないということなのだうろう。同様に貴重だとか、希少だという言葉にも惑わされてはいけないのだろうが、実は多くの人はすでにそんな言葉に惑わされているように思う。
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長野県のすごさ

2006-07-29 10:41:19 | つぶやき
 今回の諏訪地方を中心とした災害に対して、長野県の職員を7月22日(土)と23日(日)にそれぞれ2200人、合計4400人を公務として派遣して話題になった。聞くところによるとこの4400人は県職員の9割を超える数字だと言う。ようは1人1日は「行ってこい」という感じだ。実際の諏訪地方などの担当部署の職員がいたり、実際に被災している県職員もいるだろうから、まさしく1人1日に近い勘定だと思う。これも地震などのように人手がなくて緊急性が高いときに、すぐにでも・・・というのならわかるがどうも違うようだ。そのへんについては、長野県職労のホームページに記事があるからそちらを参照されたい。いずれにしても市町村から依頼を受けての行動ではない。それも相手側の市町村にも21日の夕方知らされたという。もちろん、県職労のページにあるように、職員への要請は前日の夜になってからのことである。時、県知事選挙のさなかである。「やるなー、康夫くん」てなところだ。が、しかし、こんなことがまかり通っても、「業務命令」ともなると、けしてよく思っていない職員も表立った反論をしない(できない)ようだ。

 県職労が派遣規模の人員をどう出したのか、と質問しているが、これはどう考えても1人1日を目安にしている数字としか思えない。おそらく田中康夫帝国が確立されていくのだろうが、まさかとは思うが、この派遣要請に出た人と出なかった人ですごーい格差が与えられるやもしれない。そんなことを職員も計算しているに違いない(失礼)。

 ところで最近の長野県は本当にすごい。何がすごいかといえば、長野県のホームページだ。今回の災害にかかわるデータのオープンさ、アピールさである。大雨対策本部会議の議事録どころか、何時間もの録音がすべて公開されている。こんなものをチェックしている人も世の中にはいるのかもしれないが、このデータ量はすごい。さらには、例えば「大雨で被害を受けた農家に直接お伺いする田園ローラー作戦を展開し、復旧作業をお助け隊がお手伝いしています!」てなページには、こんなに長野県は貢献しているぞ、みたいなまさしくアピールが延々と続く。

 そんな暇なことをしていて気がついた。「災害でお困りの皆さん “廃棄物”なんでも24時間 県が無料で引き取ります」なんていう字がでかでか躍っている。そこまで県が率先して動いちゃうんだ、と驚く。実際地元の自治体とどういう調整をしているのか知らないが、まさか地元を飛び越して県がやっていることはないと思うが・・・。地元の自治体は職員数も少ないし、県ほど大胆なことはできないのはわかっている。とはいえ、あまりに県が動きすぎると、「役場は、市役所は、何をしているんだ」という住民の不信が湧くともかぎらない。どうも田中康夫という人は、「市町村なんてなくてもいい、県がみんなやるから・・・」みたいな意識が根底にありそうだ。県知事選挙に触れて、村井仁候補が「県は市町村のサポート役」と言うのに対して、田中康夫は村井仁候補が道州制を視野に入れていることに触れて「『信濃の国』が歌えなくなっちゃうんですよ」(別に歌いたくないけど、わたし)なんていうことを言って、県は必要だと声を大きくしている。なぜ財政的に厳しくても職員を減らさないのかよくわかる。ようは市町村の代わりを県がしていくから、「市町村の職員は減らしてもらっていいから、県がやるよ」みたいな構想があるに違いない。

 基本的に県と市町村は対等だなどと田中康夫は言っているが、その役割を無視してどんどん市町村に踏み入っているんだから対等などというレベルではない。

 トップページの記事一覧を見ていて、こんなものもあった。「価格表示認定制度 認定店のご紹介」といって「ガソリン等価格表示認定式を実施! 26店舗を認定しました。ガソリン等の価格を適正に表示しているお店を紹介します。7月25日現在の認定店は 28店です。」と紹介されている。確かに長野県のガソリンスタンドは価格が表示されていないのが一般的だ。それは確かに許せない。しかし、県が認定制度なるものを掲げて認定店をおもむろに紹介してるのには疑問がある。「何様のつもりなんだ」と印象を持つのはおかしいだろうか。

 役割分担を無視する長野県。中小民間を最も圧迫している大企業は、実は長野県なのである。
 (これだけの職員をパッと出せる、これだけのデータを持ったホームページがどんどん更新される、etc・・・。長野県職員に本当に求められる仕事とは何だ。○○お助け隊とか、○○目安箱とか、「何だこの変な県は」・・・)
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ハエとり

2006-07-28 08:11:00 | ひとから学ぶ
 「ボッケニャンドリ家のハエ対策」でハエを虫取り網で捕まえる、という話が書かれていた。そういう発想は我が家にはなかった。今でこそハエの数は昔にくらべると激減しているが、かつてはハエなどとまっていても気にもせずにその食べ物を食べるという姿があった。野にハエの好きなものがたくさんあっただろうに、家の中に来ては食べ物の上にとまっていたものだ。もちろんキンバエもたくさん飛んでいた。かつての自分の家を思い浮かべれば、マヤ(牛小屋)はあったし、豚小屋もあった。加えて〝わたしにとっての「便所」〟でも触れてきたように、便所にはウジは湧いているし、生の汚物への連絡道があったから、ハエがわくのも当たり前であった。そんなところにいたハエが台所や茶の間にやってきては、目の前にとまるのだから、確かに気分のよいものではなかった。

 そんなだからまったく「気にしない」ということはなかった。マヤにはハエ取り紙がいくつも吊るされていたし、茶の間にも台所にもハエ取り紙が吊る下がっていた。そういえばそんなハエ取り紙の吊るされた姿は、ずいぶん昔の記憶このごろはで見たことがない。今でも作られているのだろうか、あるいは売られているのだろうか。マヤに吊るされていたハエ取り紙は、真っ黒になっていたことを思い出す。それでも牛の顔にたくさんのハエがとまり、牛も気になるのだろう、手(足)で払うわけにもいかず、顔を動かしたりして振り払っていた姿が浮かぶ。

 さて、そんな我が家のハエを取る方法に、「手で取る」というものがあった。それを実践していてとくに上手だったのが母である。飛んでいるハエを、両手でさっと挟んで取ってしまうのだ。拍手を打つがごとく、さっとやってしまう。その見事さは感動ものだった。同じような所作は、父も祖父母もやっていたが、母の機敏な動きには勝てなかった。そんなハエの取り方がしてみたいと、わたしも真似たものだが、当時はうまくはいかなかった。それでもハエ叩きが近くに見えず、探すのも厄介となると、今でもそんな取りかたを実践する。とくに確実なのは、とまっているハエの飛び立つところを狙って拍手を打つと、けっこう捕獲できる。ハエは飛び立つ際に、ほぼ真上に飛び立つため、その動きを想定して狙うのだ。こんなときよく失敗するのは、拍手を打ってハエがつぶれて手のひらに〝グチャッ〟とつくのを嫌っていると、両手の平の間に捕獲はできるのだが、〝取れただろうか〟と手の平の様子を伺うと逃げてしまうのだ。そんな失敗がよくある。〝グチャッ〟となってもいいとあきらめて確実につぶすつもりで叩くと見事にハエは死ぬのだ。このとまっているハエの取りかたを覚えてくると、飛んでいるハエも取れるようになる。生まれ育った我が家のハエ取り方法は、わたしに伝承されたが、そんなワザを使うほどハエはいなくなった。
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ルリタテハの幼虫

2006-07-27 08:17:34 | 自然から学ぶ
 ホトトギスの葉っぱが食べられて坊主姿になりつつある(写真右)。知識がないからよくわからないが、なぜ上から丸坊主になるのだろう。よそのページなんかで幼虫の写真を見てもそんな姿が見られるが、そこまでは説明されていない。卵が産みつけられる葉が上の方だからそういうことになる、そんな単純なことなのだろうか。幼虫になった時から身体にはトゲトゲが見られる。そして写真左側の幼虫までなると、間もなく蛹になる。

 右側のホトトギスのようにかなり虫食い状態になっていれば、何かの幼虫に食べられたとすぐにわかるが、これほど丸坊主になっていないとすぐには気がつかない。観察してみると近くにあるホトトギスの葉っぱも、少しではあるが虫食い状態のものがある。きっとルリタテハの幼虫がいるのではないかと、葉っぱを裏返すと、予想どおり幼虫がいた。まだ何齢目なのか小さく、10ミリ程度のものである(二齢くらいか)。丸坊主になりつつあるホトトギスには、間もなく蛹という終齢のたくさんの幼虫がついている。これだけたくさんいれば丸坊主になるのも仕方ない。

 終齢の幼虫は、濃褐色の斑点のある部分と白と褐色の縞模様のある部分が交互になっている。約50ミリ近い体長である。褐色の斑点のある部分から線香花火のようにトゲが飛び出ていて見るからに「過激」な姿である。触ってはみなかったが、この線香花火で外敵を威嚇しているのだろうか。タテハチョウ科のチョウの幼虫には、こんなトゲが出ているという。オニユリとかサルトリイバラ、ヤマジノホトトギスなどのユリ科の植物が食草になる。
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ボールペン

2006-07-26 08:07:22 | つぶやき
 けっこう筆記用具にはこだわる方だ。だから、会社で仕事をしている際も、支給品を使わず自分のものを利用する。会社とプライベートの筆記具を使い分けるなんていう器用さはない。常に持ち歩くペンは、常に胸のポケットにさしている。それほど筆記具をよく使う。もちろん今の世だから文書はパソコンで書かれていくが、文書ではない自らのメモ的なものはすべて自筆だ。なにしろ書いておかないと忘れてしまう。だから筆記具はもちろん、メモ帳も常に持ち歩く。格好悪いと言われようとなんだろうと、ペンとメモ帳は常に持っていないと気分がよくない。そんなペンを、時折忘れたりすると、もうその一日はダメである。

 以前は4色ボールペンをよく利用した。そのころは会社のペンを利用していたが、ボールペンだけだと都合の悪いことも多い。消せないからだ。そんなことからいわゆるシャーボを使うようになってそれからは自前のペンを利用するようになった。ゼブラのペンをよく利用したが、油性ボールペンではなんといっても書きやすさはゼブラだった。書きやすいということはインクの出がよいから、ときにはインクのたまりが紙についてこすったりすることはあった。それだけはなんとかしてほしいのだが、インクの出がよいともなれば、そんな弊害もあるのだろう。

 しかし、最近は油性ボールペンを使わなくなった。もっと書きやすいペンをみつけたからだ。ジェル(ゲル)インクのボールペンである。これの3色とか2色のボールペンを利用している。これもまたゼブラのものがもっとも書きやすい。ただ、ジェルインクの場合は、どうしても芯が太くなるため、複数色のペンは太くなる。となると、ポケットにさすにも気になるようなる。そこが最も欠点である。それでもなるべくスマートな製品がないかと探した結果、ゼブラのJELL3というペンが愛用品である。とはいってもわたしのニーズには適っていない。ジェルインクも、使っているうちに油性のボールペンと同じようにインクがたまって「ポタッ」と紙につくことがある。油性と異なり速乾性はないから、こすってしまうなんていうことも多い。書き味が良すぎるくらいに良いから、インクがすぐになくなってしまう。交換用の芯を常に持っていないと、インクがなくなって書けないなんていうこともある。

 そんなことがあって、セブラのものが愛用品ではあるが、文房具売り場を目にすると「何か良いペンはないかなー」とのぞいてしまうのは常である。そんななか、近ごろ見つけたユニボールのゲルインクボールペンをこのところずっと使っている。ところがゼブラのものよりインクの出はよくない。しかし、出が良くないくらいだから、ゼブラのようにすぐインクがなくなってしまうということはない。加えて芯の太さが油性ボールペンとさほど変わりないということで、複数色のペンでもゼブラのものよりは格段と細い。外見だけはゼブラ以上のスリムさで納得できるものだ。ところが、書き出しのインクの出が悪いということ、インクのでは悪いのに、時折インクがポタッという感じに紙についたりする。これは何とかして欲しい改善点だ。

 と、まあ筆記具のこだわり派である。もちろん銭はないから安物のペンでいかに使いやすさを極めるか、という世界ではあるが・・・。
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天竜川からみる上下関係

2006-07-25 08:06:04 | ひとから学ぶ
 「上伊那郡における平成合併に思う」の中で、盛んに方向性ということを述べた。そして今までにも郡境域に住む人たちにとっては、中央に住む人たちとは意識が違うということも触れた。合併のことを考えながら、ふだんの暮らしの中で垣間見る地域間意識のようなものを捉えてみると、天竜川流域の特殊性のようなものが見えてくる。先に「南信州とは?」の中で妻のこんな言葉を紹介した。「このあたりの人たちって、喬木村とか豊丘村のことを「しもの方」って言うんだよね。まるで馬鹿にしたように・・・」。「このあたり」とは下伊那郡でも北部である。こういう言葉はこれが初めてではない。似たような言葉は、ここに暮らすようになってから何度か妻は口にしていた。そういうことを言うこの地域の人たちの気持ちも、なんとなくは解る。「何を今更」というおしかり言葉が出るだろうが、そういうことも言ってみたい、その内面は解るのだ。たとえば、かつてある町長の初選挙の折に、地元の町会議員が候補を連れてきてわたしに「対抗馬は川の向こうだから・・・」と言ったのもある意味では同じことなのかも知れない。ただ、同じ地域の首長を目指そうという際にそういう言葉はどうか、と以前にも批判したことがある。そういう言葉が思わず出る背景というものは、地域間の比較という常日頃の気持ちからのものだろう。

 郡境域の人々は、そうでない中央にいる人たちにくらべれば下に見られているという意識がどうしても生まれる。そうでなければ自分の中で納得できないのだろう。そんな意識になることがそもそもレベルの低いことだ、そういってしまえばそれまでであるが、それは現実である。そうでない価値観を持ち、子どものころから育っていれば別だが、「田舎だから」とか「山間だから」とかそんな言葉が出ればどうしても意識として持たざるを得なくなる。そんな時に比較の対象として、同じ中央でない人たちとどこが違うかという意識でものを見始めるわけだ。だからまず位置情報としての「下」というものが一つの比較対照として生まれてくる。「下」は上下関係の下というように捉えて。あくまでも意識的なものであって強いものではないのだろうが、そう捉えてしまうのだ。

 以前このあたりの人のなかには、今でもかつて上伊那郡であったことを意識して、「上伊那は進んでいる」みたいなことを言う、と近所の人に話したところ、「いまだにそんなことを言っているやつがいるからいけない」とかなり怒っていた。その気持ちもわかるが、この意識は子どもの世代、あるいは孫の世代を越えていかないとなかなか消えないだろう。

 さて、上伊那に生まれ育ったわたしとしては、「北へ向うほど都会的な意識にある」と捉えていた。それは自分の生まれ育ったところより南の下伊那のことは抜きにしての話である。生まれ育ったのも郡境であったが、上伊那という枠でものを見ていて、あまり南のことは意識しなかった。そう考えてみると、中心である伊那が最も高いところにあるのではなく、さらに北に向かい、諏訪がもっとも高いところにあるような意識を、どことなく持っていた。そんな意識はわたしだけだったかも知れないが、その後の高校時代に飯田へ通い、そのころ諏訪まで何度か電車で行くたびにそう思ったのだ。天竜川は源が諏訪湖である。しだいに川幅は狭くはなるが、いきなり湖から始まるというあまり例のない大河である。一般的に郡の上下は川上か川下かで言われているが、県内の天竜川をみる限り、川上にいくほど田舎になるのではなく、川上にいくほどに町になり、そしてそこは東京に近い。こんな川と人々の暮らしの配置は、まさしく上下を思わせるには好都合なのだ。加えて諏訪には諏訪神社がある。その諏訪信仰は全国に広がる。御柱祭をみても、その規模はまさしく諏訪神社のある諏訪が大きいわけで、離れるほどに規模は小さくなる。この立地、配置は郡境域という環境による意識によって育まれる上下関係ではなく、天竜川という川が原点にあるように思ったりする。具体的な証明など何もないが、そう思うのだ。
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キキョウ

2006-07-24 12:12:03 | 自然から学ぶ


 盆花といわれるオミナエシやキキョウであるが、こうした花もめっきり少なくなった。オミナエシはまだけっこう姿を見るが、それでも少なくなっているともいう。そこへいくとキキョウは、栽培されて庭先に咲くものはよく見かけるが、野に咲くものは極端に見られなくなった。草丈がせいぜい1メートル程度ということで、荒れ放題の野山では姿を消しても致し方ないかもしれない。どうしても雑草は管理されないと、草丈の高いものに占有されていく。とすればこうした1メートル以下の草花は、姿を消さざるをえない。かつては野山にあるものすべてが利用された。土手草に限らず、草原の草は家畜の餌として利用されたし、里山の雑木は焚き木などとして利用された。「かつては自然が豊かであった」という言い方は果たして正しいかといえば、必ずしも適正とはいえない。かつてはそうした自然に多くの人手が入って管理されていた部分が多い。

 緑が多く、自然のままなら良いというものではなく、季節ごとに草や木が適度に利用されることによって、多様な自然模様を見せてくれたわけだ。このごろは、ただひとつの種を取り上げては貴重だから、とか保護しなくては、と言うが、総合的な人々の暮らしとのかかわりには視点が及んでいないのだ。いや、自然にかかわる専門の方々もそれは十分認識していて、そういう視点で説明しているものの、捉える側には実感が伴わなくなっていて(説明する側にも実感がないかもしれないが)結局「貴重」とか「保護」という視点にだけ注目してしまっているわけだ。かつては荒れていなかった野山を、今どうすることもできないという事実もある。耕作地ですら荒れ放題なのだから。意外にもそんな荒れ放題の水田で、常に湿地となっているような場所に、ほかにはない草花が残っていたりする。人のかかわりがこれほどまでに環境を変えてしまうということは、認識しなくてはならないことであり、いっぽう、保護を訴えてはいるが視点は違うのではないか、あるいは人々がもともと管理してきた環境がなくなった以上、それはわたしたちが選択したものであって、部分的な保護がそれほど意味があることなのかと、疑問を投げかけたくもなる。

 さて、そんな疑問はともかく、先日も犬の散歩をしながら気がつくのは、キキョウが家の敷地で咲いている姿をみる。そのキキョウと野山に咲くキキョウはまったく一緒で、わたしには違いはわからない。しかしながら、自生するキキョウの個体数はかなり少ないといわれ、国のレッドデータブックでは絶滅危惧Ⅱ類、長野県版RDBでも準絶滅危惧種に指定されている。写真のキキョウも株としては二株だけ、妻の実家の裏にあるため池に咲いていたものである。裏の畑に管理しているキキョウがあるが、自生しいるものは、近所ではこの二株だけであった。ため池の斜樋階段の脇に咲いているもので、近くには魚をすくう網が落ちていた。このため池を訪れる人は少ないが、メダカがいるということで、採取に来る人がときおりいる。そんな人たちの目にとまって採られないだろうかと心配ではある。黄色くユウスゲが咲き始めていたり、ピンクのナデシコが咲いていたりするが、紫色の花はとくに目立っている。この土手はわたしも草刈をしたりして管理しているが、それでもキキョウの姿は稀だ。まさしく絶滅寸前なのかもしれない。

 そんなことを思っていたら、東京伊勢丹の屋上に里山の花が咲いているといってテレビで放映していた。もちろんキキョウの姿もあった。なんのことはない、これらを見た人たちは、これが「里山」と勘違いすること必至である。

 撮影 2006.7.22
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ウサギとカメ

2006-07-23 10:44:15 | ひとから学ぶ
 息子は塾には行っていない。しかし、自主的に勉強するには弱さがある。勉強しているかと思えば「信長」を読んでいる。戦国時代だけには異様に詳しい。そんなことが気になって、今年は受験もあるし塾にでも行けば勉強する気になるだろうと画策している。そんななか、知り合いの先生が学校を辞めて塾を開いている。通うには遠いので無理ではあるが、指導だけでもしてもらおうと、母は相談に行った。そしたら今までの縁もあるからといって、家庭教師に行ってあげるという。そうはいっても銭もないことだし、遠慮した。次の週に再び母は足を運んでペーパーをもらいに行った。少し遠いが夏休みだけでもそこまで通うことを検討している。塾に行くのは気に乗らないという息子ではあるが、ちょっと遠いし、今までにない方向へ通う生活だから、少しはその気になれるかもしれない。昨日も勉強部屋にこもっているから勉強をしているかと思えば、何もやっていない。要領の悪さは天性のものだ。好きなことをしたいのなら先に課題を済ませればよいのに、それをしないから母親にしかられて、好きなことが何もできず、さらには翌日まで尾を引く。父もそんな空間にいて気分はよくない。

 ところで、その塾の名前は「亀」という。義弟に話した母は「遅そうだね」と義弟に言われた。でもよーく考えてみれば、奥は深いし、息子には合っている。何故って、ウサギとカメの話である。母は父に「何でだかわかる?」という。わたしは「油断していると抜かれちゃうから」というと「ブー」である。何でと問うと、ウサギは相手しか見ていなかった、でも亀はゴールを見ていた。だから目標まで達した亀がしっかりと勝利をつかんだわけだ。もちろん油断することも良くない。しかし、しっかりとした目標を置くことが、人に左右されずに自分をつかむ一番の方策だと気がつくのだ。それを教えているのが「ウサギとカメ」なのだ。あらためて、そんな昔話が奥深いと気がつくわけだ。

 人に勝つのではなく、自分の目標に達することを考える。だからこそ人に惑わされない。母は義弟と「そういえば昔話ってどれも歌になっているよね」と話し、義弟のまだ小さな息子たちが口ずさむ歌が、意図もないようで実は物事を示唆しているようで、納得の世界に入ってきた、そういうのだ。「なるほど」、とうなづくだけの自分は、浅はかであった。

 もしもし かめよ かめさんよ せかいのうちに おまえほど あゆみの のろい ものはない どうして そんなに のろいのか

 歌詞を読んでみると、そんな奥深さはうかがえない。まったくカメを馬鹿にしている。「ウサギとカメ」で検索してみると、意外にもたくさんのものが登場する。やはり、それらの多くは「自信過剰で思い上がり油断をすると物事を逃してしまう。 また、能力が弱く、歩みが遅くとも、脇道に反れず、着実に真っ直ぐ進む事で、最終的に大きな効果を得ることができる。」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)という捉えかたが多い。「歩みの遅いものは誰かがミスしなければ勝つことはできない」なんて捉えかたもあるが、たがが昔話、されど昔話、てな具合に幅が広い世界だ。
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「小海線の旅」

2006-07-22 09:50:23 | 歴史から学ぶ
 「消えた村をもう一度」と題してパンフレットを紹介しながら、合併して消えてしまった町村のことを書いてきているが、ここに広域単位で作成されたパンフレットを一つ紹介したい。

 写真の「小海線の旅」というパンフレットをどこから手に入れたかはよく覚えていない。そして、奥付にある発行所を見ても発行日が記録されていないので正確に作成されたのがいつなのかは、わたしにはよくわからない。しかし、こうしたパンフレットを集め始めた最初のころのものであることに違いはない。すこし遅れて「佐久」というパンフレットも作られており、その奥付などから推定すると昭和50年前後のものと思われる。この冊子は、A5版で40ページ立てという立派なものである。パンフレットというよりは観光用の雑誌という作りである。

 創刊号であるこの雑誌を開くと、

 信越線の小諸駅と
 中央線の小淵沢駅を結ぶ
 延長78.9キロの小海線は
 日本で最も標高の高いところを走る
 本格的な高原鉄道です。

 と書かれていて、続いて目次がある。「特集」高原列車、ひろがりの高原、高原、小海線の歴史などと続く。八ヶ岳をバックにしたこの表紙の建物は、「八ヶ岳高原ヒュッテ」といわれ、当時テレビドラマの舞台にされたことを覚えているが、何のドラマだったか記憶から飛んでいた。それではと思い、HPで検索してみたところ、昭和51年に田宮二郎と由美かおるが主演で「高原へいらっしゃい」というテレビドラマがあったということがわかった。記憶によるとおそらくその時代のことである。このヒュッテ、当時の一泊二食付きの宿泊料は、5500円から6500円だったが、現在はホテルとしては営業していない。そういえば、2003年に佐藤浩市主演で同じタイトルのテレビドラマが放映されている。

 冊子の中にも紹介されているが、「日本国有鉄道線路最高地点」という看板があった野辺山駅近くの標高は、1375メートルある。開業当時は原始林の中に駅があって、待合室に熊が出るという話もあったという。

 小海線沿線観光連絡協議会が発行したもので、この協議会の事務局は、沿線の市町村が持ち回りで受けていたようだ。2号になると発行している事務局が違っている。ちなみに第1号は佐久市の商工観光課内に事務局があった。山梨県側の清里は、このころからしばらくの間、若い女性に大変人気のあった観光地であるが、その面影がこのごろはだいぶなくなった。小淵沢町、長坂町、大泉村、高根町と4町村あった山梨県側の沿線は、最後に残っていた小淵沢町も合併して、現在は北杜(ほくと)市というちょっと想像のつかない名前になっている。

 小海線のパンフレットを昔から持ってはいるものの、乗ったことは1度しかない。それも韮崎から佐久市まで歩く強歩大会に参加した際に、ただの1度である。
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小田井の道祖神

2006-07-21 07:54:42 | 自然から学ぶ
 長野県における梅雨前線豪雨災害は、岡谷市の土石流、そして箕輪町における天竜川堤防の決壊といったところに報道が集中しているが、実はほかにもさまざまな影響を受けている。表には出てきていないが、千曲川の増水も一昨年の台風23号による洪水に匹敵、あるいはそれを超えようとするくらいの量になっているようだ。天竜川には堤外地の農地はほとんどないが、千曲川には堤外農地が多い。そうした農地はほとんど水没した。継続して降った雨の量は確かに多いが、果たして昭和36年に起きた伊那谷を襲った梅雨前線豪雨に匹敵するものかというと、あの災害は超越したものだった。このあとに再び数百と言う雨量があれば、かつてを思い起こすような災害が起きうるのかもしれない。そうならないことを願うばかりだ。

 ところで、岡谷市湊3の土石流災害は、多くの犠牲者を出してしまった。ニュースを聞きながら、湖岸に隣接して住宅が連なる裏には中央自動車道が走り、その南にはそれほど高くはない山がある風景が浮かんだ。ところが、昨日になって朝日新聞を読んでいると、「神社が流れた」というような記述があって、「もしや」と思ったのだ。さらに同紙の地方版を注意深く読むと、住民のコメントがあった。「車で新聞配達を始めたばかりだった近くの男性(55)は船魂神社付近で奥の山から流れてくる土石流を見て、とっさに車から飛び降りた。高台にある久保寺を夢中で駆け上がり、下を見ると、勢いある泥水で住宅地がぐちゃぐちゃになっていた。住宅3軒、自動車数台、それに無数の大木……。「本当に間一髪だった。あれに巻き込まれていたらと思うと、ぞっとする」と話した。」と書かれている。

 実はこの船魂社には5年ほど前に訪れている。この神社の入り口にある小田井の道祖神を調べに行ったのだ。小さなお宮ではあるが、諏訪のお宮であるから、小さくても御柱が建てられている。そして、この地らしいのだが、道祖神にも小さな御柱が建てられる。この道祖神は、もとは集落内の南小路の辻にあったもので、そこにはかつて火の見があって、集落の中心的な所であったという。そんな話しを道祖神の近くの家で聞いて歩いた。その船魂社の西側に交差点があって、山へ向かう縦道が高速道路をくぐって続いていた。まさしくこの道に沿って土石流はやってきたようだ。神社が流されたとあるが、船魂社のことなのか、近くにあったもうひとつの神社なのか、今は定かではないが、地域の高いところから人々の背後を見守るように建っていた道祖神は無事なのだろうか。

 訪れた場所が土石流に遭い悲しさを覚えるのは二度目である。15年、いやもう少し前かもしれないが、下伊那郡天龍村のJR伊那小沢駅のすぐ横の小さな沢から土石流がやってきて、駅の入り口にあった家がのみ込まれる災害があった。やはり何人か亡くなられたと記憶する。この伊那小沢では春先の祭りに神楽が披露される。それを訪れたのは、災害を受ける2、3年前だった。訪れた場所が災害を受けるということは、ほかにも何度が経験しているが、亡くなられる方が出るというのはつらい。

 今回の岡谷市湊の背後の山は、それほど深くはない。なぜこんな山から土石流が発生するのか、そんな疑問がわく。ここで起きるのなら、長野県中どこで起きても不思議ではない。今回も報道されているが、意外にも高速道路が土留となって、ある程度土石流を緩和したようだ。長野県内の高速道路をみると、とくに諏訪から伊那谷を通過している中央自動車道は、山付けに設けられていて、それでいて河川の堤防のように天井道路になっている箇所が多い。したがって、山からの土砂崩落は、この道路堤防が受け止めてくれるケースがある。そのいっぽうで今回のように、高架橋化されているような箇所は、土石流の通り道となる。皮肉にも道路が自らの生活を保護してくれる結果にもなるのだが、行き来しやすい抜け道には危険が潜んでいる。土留の役割としては、天井に限らず掘り込み箇所においても効果を発揮したりする。予想もつかないような場所での土石流。どうそれを察知するか、やはり、自らの住処を歴史も含めてよく認識することが第一なのだろう。
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上伊那郡における平成合併に思う

2006-07-20 08:04:32 | ひとから学ぶ
 『伊那路』594号の上伊那地域合併特集号に触れて、最後に山口通之氏が「平成の合併の概況とと感じたこと」を書いて、この特集号をまとめている。今でこそ下伊那郡に住み、おそらくそこで臨終まで暮らすことになるであろうわたしであるが、生まれ育ったのは上伊那であることに変わりはない。そうした気持ちを込めて、この上伊那の合併特集からわたしなりの気持ちをまとめておきたい。

 全郡の10市町村による広域合併という大きな枠、そして伊那市中心の6市町村合併と駒ヶ根市中心の4市町村合併というもうひとつの枠、そんな選択が当初からあった上伊那であるが、いかに中心都市へ依存しているか、という事実が合併の判断をする際の大きな要因になったことは確かである。同じ郡内に市がふたつあり、ひとつは郡役所が昔から置かれた伊那市、いっぽうは旧赤穂町に天竜川東岸と現在の宮田村を合併して市制を敷いた駒ヶ根市である。後に宮田村が離村して、駒ヶ根市は全国的にも人口の少ない市として知られるほど小さな市として存続したわけだ。今でこそ他の市が人口減に悩む中、駒ヶ根市は人口増となりかつての「小さな市」というイメージは薄れたが、合併が繰り返される中では、いずれかつてのようなことを言われる時期が来ないとも限らないわけだ。この駒ヶ根市を中心にした4市町村においては、「伊南」という地域名称で行政組合を構成してきた。そんなこともあって広域合併が成立しないのなら、まず行政組合の単位で合併を、という流れであったわけだ。しかしながら、もともと合併しておきながら離村した宮田村においては、駒ヶ根との合併には相容れない住民の比率が大きかっただろう。加えて伊那市と隣接していて、生活における方向性は必ずしも駒ヶ根市ではなく、むしろ伊那市寄りであったに違いない。そんな立地上の観点からも、合併を否定されても致し方ないという条件下にあったわけだ。まさしく宮田村は合併協議会から離脱し、残った3市町村で再び合併協議が進められたわけだが、結局一つになることはできなかった。

 同じように伊那市を中心とした6市町村も、伊南4市町村同様にまとまりきることはできなかった。とくに交通網の発達により、今では伊那以北の住民は、諏訪や松本までが通勤圏内となっており、合併をしなくてはならないほどの危機感が住民にはないはずである。そうしたなかで、山間部を持ち財政的にも厳しい高遠町や長谷村だけが伊那市とともに合併にこぎつけたわけだ。上伊那郡では唯一の合併成婚だったわけだ。

 どちらも中心となりうる都市へ、どれだけ依存しているかということが重要となってくる。一般住民には、県の出先機関がある伊那市が依存すべき第一の都市だとは思っていないはずである。ふだんの暮らしの中での依存度となれば、今や買い物である。「人々の暮らしがどこを向いているか」ということは、大きな選択肢となる。長野市近郊の町村が、いずれはすべて長野市に合併するのではないかとみられている。そして、さらに広域合併を図り、政令指定都市並の合併まで視野に入れざるを得ないほど、この地域は自治体という枠がそれほど大きな意味、あるいは色を出しているとはわたしには思えない(ちょっと言い過ぎかもしれないが)のだ。それは裏を返せば、長野市という大きな枠への依存度が高いということの証明にもなる。同じ環境はほかの地域にはない。松本市を中心とした地域が、今後どれだけ集約されるかは注目できるが、いずれにしても伊那谷のような空間では、まだまだ容易にはまとまりある空間にはなり得ない。

 長谷村を合併した伊那市の肥大化をみれば、そして蝶が羽を広げたような変則的な松本市の合併範囲をみれば、上伊那全郡ひとつでもなんらおかしくない距離感覚である。しかし、それを曲げても、ふだんの暮らしの方向性から育まれた住民感情は、なかなか曲げられるものではないということだ。

 さて、上伊那郡境に育ったわたしにとっては、方向性という視点からみれば、郡枠にこだわることはなく、隣接郡境域がひとつになっても不思議ではないのに、と思うのだが、またそこに方向性というものが立ちはだかるのだ。もちろんわたしも、郡境域の人々の気持ちを理解しない飯田市民に今の段階ではなりたくないし、イエスともなかなかいえないわけだ。
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天竜川洪水状況を知る術

2006-07-19 20:14:15 | ひとから学ぶ
 たまたま「上伊那郡における平成合併に思う」(明日投稿予定)を書いていたら、この災害である。1日早くにずれていたら、長野市にはいなかったかもしれない。それほど長野県の中心ラインあたりで降水量が多く、通行止めが続いた。19日昼のニュースのトップで岡谷市の土石流災害や天竜川堤防決壊が報道された。大河川でありながら、源は湖という天竜川。始発から人為的に操作(水門で)されるのだから、諏訪湖はダムのようなものだ。長野市にいるから、地元の様子はよくわからない。「降ったんだなー」程度の認識であって、なんとか様子を知ろうと、ホームページを彷徨うが、なかなか当らない。こんなときにと思い、飯田下伊那のブログの検索ページ「Fruit Cocktail - 勝手に作った飯田下伊那のブログポータルもどき」にいってみた。人口の多くない地域だから、そこに登録されているブロガーがタイムリーに投稿してくれるわけではないが、けっこう雨のことが話題になっている。

 そんななかに見つけた松川サービスのページで「中川村の天竜川は堤防が決壊してしまい、田んぼが沼と化していました。」という文を発見。写真もあって、牧ケ原橋上流が湖になっている。まさしく国道153号の牧ケ原トンネルの北側である。さらに探して中川村のホームページに「最近の中川村の風景」というやつを探し出した。小和田地区の水田地帯が、まさしく湖である。国道が天井道路になっているから、まるで「天の橋立」状態である。

 と、まあ自宅のご近所の様子がなんとか確認できた。こういう緊急時、情報が正しいかは自ら判断しなくてはならないが、けっこうブログの記事が情報になることを知った。そういう使い方を改めて認識。

 かつて、降雨時に水路があふれて困るので調べてほしい、そう言われてある地域を調べたことがある。すごい雨降りの中、ここぞとばかりに区域のあちこちを車で駆け回った記憶がある。だから雨が降ると、けっこう川の様子が気になって仕方ない。今までにも触れてきているが、自ら川の氾濫原に生まれ育ったという性分なのかもしれない。河川整備がされ、かつてのように〝ごろん、ごろん〟という石のぶつかり合う音は聞かなくなったが、そんな暗闇の世界は、落ち着いて寝られるものではなかった(とはいうものの、子どもなんて眠ければ眠ってしまうが)。そんなことを思い出す洪水の報道であった。
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村井仁の言葉から

2006-07-19 08:14:03 | ひとから学ぶ
 長野県知事選の立候補予定者における公開討論会が16日、松本市の県松本文化会館で開かれたという。このなかで、田中康夫現知事は、その対抗馬とされる村井仁候補に、「ホームページで、市町村が元気になれば県はなくなってもいい」といっていることに対して質問したということが新聞記事にあって、「村井仁はいいこと言うなー」と思い、思わずホームページでその言葉を捜してみた。

 具体的に同じ言葉で書かれた部分は探せなかったが、どうも下記の部分を指しているのだとわたしなりに思ったのだが、ちょっとその部分を原文のまま紹介する。

以下「村井仁ホームページより」

 県の役割は、私の認識では、県庁・県知事はこのような改革に取り組む市町村・地域のサポーターなのです。裏方なのです。市町村・地域の施策の実現を最大限バックアップするのです。その為にアイディアを出し、助言をし、労力を注ぎ込むことは惜しみません。本当のパブリックサーバント、奉仕者に徹するのです。

  その結果、長野県は強力な市町村・地域の緩やかな集合体になるのです。いずれ道州制になったときに、既にその体制に対応する準備が出来ているのです。


 道州制が叫ばれるなかで、市町村が自立して自ら責任が負える集団になるために県はサポートしていく、そう言っているわけだ。わたしは、県の必要性というものは、どこにあるのかと常に思っている。だからこそ、その必要な部分は県として担わなくてはならないだろうし、不要な部分は民間に、あるいは市町村に、あるいはそれ以外の人たちに、という具合に展開していってもなんら問題ないのではないかと思っている。県だけが肥大化していくこともないだろうし、県が市町村を動かそう、住民をサポートしようなどということになったら、市町村は不要になってしまうわけだから。ちょっと飛躍かもしれないが、そういう考え方もある、ということである。

 公共事業にしても県営などといって県がサポートして地域に密着しているものはあるが、現実的には市町村が関わるし、市町村が責任を負っている部分が多い。県が上に立つ、という意識を変えない以上本当の意味の改革などはありえない。実は、こんなことを聞いたことがある。県の施設で管理的な部署にいる職員には、一般職ではなくそうした地域採用(具体的にはどういう採用なのか知らないが)の職員がいたりする。そうした職員は、どうしても一般職とは異なり、常にそうした職員との壁のようなものを(下に見られがち)認識している。それはそれで仕方ないのだろうが、そうした人たちは、どう考えてもさらに下にいるそうした施設に入っている団体の職員に対して頭が高い、というのだ。たまたまそんな人がいる程度なのだろうが、基本的に役所の人たちは縦関係であることに変わりがなく、住民にしてもなんにしても「下」に見る節がある。誰でもそんなことはあるのだろうが、無知なことを馬鹿にしたりするのは、役所の職員に多い。無知といったって、部外者にとっては行政に無知なことは当たり前である。それが優越感をもてるものだとすれば、勘違いのなにものでもない。

 さて、田中康夫に対しては、ちょっと対抗馬として「弱い」、という印象は否めなかった村井仁候補であるが、方向性としては納得できるものがあると、なんとなくではあるが思えるしだいである。ただ、どうも村井候補は、明らかに道州制を前提とした県不要論で田中康夫と対抗しているようで、この部分は今後田中康夫との相違点としてもしかしたらマイナス面になるかもしれない。
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小学校統合問題から

2006-07-18 08:09:36 | ひとから学ぶ


 息子の通った小学校は、耐震性能が低いということで、耐震補強をするのか建てかえるのか、地元でいろいろ噂が流れている。耐震補強をするにもずいぶん金がかかるようで、いっそ建て替えなんていうが、田舎の自立自治体ではその金も大変だという。加えて天竜川を挟んだ向こう側の山間部には、複式学級になっている小さな学校もあって、そちらでは「いつかは統合」なんていうのも致し方ない、という雰囲気だという。そんななかで、建て替えではなく、「統合」を視野に入れて・・・なんていう話もあるようだ。「金がない」といって統合なんていうのも、最も大事な教育の部分なんだから、そんな理由はかんべんしてもらいたいものだ。

 ここでちょっとその全体像をつかんでみよう。図に示したのは抽象的ではあるが自宅のある町の図で、もちろん外周の内側がエリアである。赤色で分割してあるのが、大きな地域分けである。AとBの間には天竜川の大きな支流が流れ、AとCの間には天竜川が流れている。昭和の合併でできあがった自治体であり、平成の合併には至っていない。AとBの間には生活道路としての橋が5本ある。AとCの間には2本ある。そして学校はそれぞれの記号のあたりにある。ちなみに中学は1校で、Aに隣接している。学校の規模は下記のようである。

 A校 生徒数721人 25学級
 B校 生徒数197人  9学級
 C校 生徒数 24人  4学級

 という具合である。Aは1学年4学級、Bは1学年1もしくは2学級、Cは1、2年で7人、3、4年で6人、5年4人、6年7人という。少子化だからしだいに生徒数が減少していくことは否めない。とくに、Cは近年複式学級になったもので、Bは近年になって1学級になってきた。息子の通った学校はこのB校である。環境面ではAもBもそれほど変わらない。ただ、中心街がAにあるということや、自治体の施設もAにあるということで、中心はAである。Cは、俗に言えば「川向こう」にあたり、山間地域である。面積的には大きいがAやBとは状況が異なる。Cの校舎が右側の山間地に片寄っているのは、Cのエリアでも左半分くらいの地域はAの学校エリアになっていることもある。通学エリア的にはAはCの半分くらいも有しているということで、大きい。AとBは完全に支流によってエリア分けされている。直線距離でいけばAとBは近いのかもしれない。ちなみにAとBを縦にわるように点線を引いているが、これより左側はほとんど山で、人は住んでいない。また、この点線の長さで約4キロくらいで、上下の幅は広くても5キロ程度しかないということになる。

 合併の際のさまざまな要件があったのだろう、川東にあるCエリアにあってもAが通学区となったという変則的なこともあって、C校はことに小規模校となってしまった。なるべくしてなったという感は否めない。また、Aの方が近いのにBへ通う子どもたちもいれば、その逆もある。これもまた合併の際の対立的な存在なのかもしりれない。

 さて、学区というものになぜそうもこだわらなくてはならないのか、というのがわたしの思いでもあるし、好きな学校を選べばよいという時代でもあると思う。それはさておき、図から判断すればAのあたりが中心だから、そこへ統合なんていうのも手ではある。しかし、通学のことなど考慮すればそれがベストともいえない。Cがもっとも校舎が新しいともいう。現実的な受け入れ状況まで把握していないが、全町全学区とした中でそれぞれ特徴を持った教育をしていけば、方法として①AとCの2校にするという方法がある。しかしながら、Cは確かに山の上にあって遠い。その立地を考慮すれば、結局C校へ通いたい人は少ないだろう。山間部をどうしていくかということにも関連するが、そのあたりをしっかり理解してもらったうえでC校のあり方を長期的に考える必要があるのだろう。現段階ではC校の統合は致し方ないという雰囲気があるが、生徒数が少ないからというだけで廃校というのも自然すぎて〝それでいいの〟と言いたくなる。

 BがAに近いから統合なんていうのもあまりに自然すぎる。発想を変えればAは敷地を広げるには無理があるとすれば、大反対を受けそうだが、②AをBに統合して新たな学校にする、という方法もある。中学はAに小学校はBにという方法が悪いともいえない。それができないのならAを小学校に、Bを中学校にしていくという方法もある。ここまでくると町をどうしていくかというところまで大きな枠でものを考えなくてはならなくなる。しかし、教育は基本である。そういうところまで議論して理解を得られないなら、「金がない」といって田舎の学校を統合していくなんていうことになるかもしれないが、それはそれで仕方のないことである。しかし、発想を変えた大胆な方法も一考する必要はあるだろう。もっといえば、Bの近くには高校がある。これからは中学と高校をどう一貫的ななかで連携していくかということも大事である。いつまでも「辺境の来てのない高校でよい」なんて思っていたら高校はなくなる。高校の統合問題でもさかんに話題の長野県にあって、特色ある高校をどう生かしてゆくかということにも、もちろん地元である町が主張できるものを持っているべきで、「ない」では「人任せ」である。わたしの発想である①と②の案はけっこう良い案に思うが、きっと賛成する人は少ない。③として統合せずに、安い校舎を建てるという案もある。小学校なんだからさまざまな教育方法が浮かぶ。Aはそのまま従来型、Bは既存校舎あるいは建物を利用して多様な教育環境を持たせる、なんていうのもある。どれもこれも賛成されないかもしれないが、「良い案」だと思うのだが・・・。教育はハードではない、ソフトである。とくに小学校教育はそれができるように思う。
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