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地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

「池の名前と村の記憶」①

2016-10-06 23:21:12 | 民俗学

「池の名前と村の記憶」、の前により

 安室知氏の『自然観の民俗学』に「池の名前と村の記憶」という章がある(「空間の民俗分類」中)。わたしにとってため池は仕事上も、自家のコメ作りでも、そして自らの自然観という点でも、長い間フィールドワーク上に存在している。とは言ってもそうなったのは結婚後のことで、それまでのわたしの生活上でのため池は、それほど身近ではなかったかもしれない。まったくなかったというわけでもなく、冬季のスケートをする場はため池だったし、遊びの場として希にムラのはずれにあったため池にも足を運んだ。しかし、今ほどため池とかかわることは多くなかった。理由はもちろん、ため池がなくても水利に豊かだったという環境があるだろう。子どものころかかわったため池も、水量を補完するためにあったため池と言うよりは、温水ため池的要素が強かった。高山から流れ出ずる川水を利用しているがゆえのことで、長野県外にあるふつうのため池とはちょっと目的が異なった。

 さて、安室氏の「池の名前と村の記憶」には何が書かれているのか、ここで概要をつかんでおくこととする。安室氏はため池の名前から「共時的世界における行政による溜池名称の掌握法は歴史的「記録」の典型を示す一方で、通時的世界における溜池名称とその変化のあり方は民俗的「記憶」のやはり典型といえよう」と結論を導いている。ここで事例としてとりあげられたため池は、山口県防府市大道にある行政上で「明昭池」「西西金寺池」と言われるため池である。近在には長沢池という大きなため池が確認できるが、これは山口市内であって、峠の向こう側。防府市側において明昭池は、貯水面積からすると比較的大きな方のため池といえる。Googleマップは基本地図を現在航空写真に選択してあるが、これを「地図」に選択してもらって少し広角側に引いてもらう。すると周囲のため池の状況がよく見えてくると思う。ようはため池だらけだということ。それも小さなため池がぐちゃぐちゃあるという感じ。水利に乏しい地域ということはこの図からもよく理解できると思う。大道だけでも平成13年のため池一覧表によると327箇所あるという。こうした大道の行政上に認識されているふたつのため池から見えてきたことについて、安室氏の文より引用してみる。ここからは文中からの引用をまとめたもののため、かっこを付さず示すので了解願いたい。

 大道では旱魃のことをヒヤケ(日焼け)といい、数年おきに必ず起きるとされていた。平坦地にあっても水の制約から水田化できないところが昭和前期には多くあった。後に溜池が作られることではじめて水田化が可能となった。そうしてできたのがハタケダ(畑田)で、小字名にもなっている。大道では池はダボと呼ばれるが、小さな池をタンポといって区別することもある。ダボのうちでもとくに溜池つまり人工の用水池を指してツツミという。大道の溜池は平坦地の山際に多く分布する。「平成一三年ため池一覧表」(防府市農林整備課資料)をもとに計算すると、溜池一ヶ所あたりの貯水量は二.六六m3、受益面積は一.六八haとなる。近世以前のものはとくに小規模なものが多い。したがって、その所有単位も、個人有が全体の約四○%を占める。山口県や防府市といった自治体が管理する溜池の多くは、昭和二二年の農地解放以前においてはU家をはじめとする二、三軒の大規模地主のものであった。
 溜池の名称からは、ある程度、その来歴や規模また権利関係といったことを窺うことができる。固有名称を持たない溜池は、個人で造り利用してきたような、ごく小規模なものがほとんどである。使用者が自分にだけ分かるように、自分の屋敷や所有水田との位置関係をもとに、「(屋敷)前のダボ」や「(水田の呼び名:小字名)のダボ」というような呼び名を付けている。そのため、同じ集落の人でも名称を知らず、その池を使用している人たちにちなんで「○○さんちの池」と呼んでいることが多い。一つの池でありながら、その使用者と他の村人とで呼称が異なることになり、複数の名称を持つことになる。行政は溜池を掌握するため一覧表を作成して台帳化しているが、住民が通常用いる「○○ツツミ」や「○○ダボ」といったその土地ならではの言い方ではなく、「○○イケ」に名称の一部を変えていることは多い。大道の一集落である岩淵地区にある一五ヶ所の溜池は、すべて「上岩淵①」~「上岩淵⑮」と通し番が付され、行政上の名称となっている。地域住民はもちろんのこと、池の所有者でさえ、自分の池の行政名を知らないことは多い。行政による池名の記号化といってよい。行政上の名称の持つ特徴として、ひとつとして同じ名称は存在しない点が挙げられる。溜池を認識する立場によってその名称が変わるもの、つまりひとつの溜池が共時的に複数の名称を持つ場合である。それに対して注目するのは、溜池の名称が時の流れとともに変わる場合である。実態として一つの池でありながら、共時的または通時的に複数の名称を持つ池が多数存在することになる。
 明昭池は明治四一年に着工し昭和四年に完成した。大道ではもっとも新しい溜池のひとつである。明昭池による灌漑面積は約一○町歩あったが、平成一六年現在は二町五反ほどになっている。明昭池のすぐ上に隣接して西西金寺池がある。その築造は明昭池を遡ること二七○年余りの一六五三年といわれる。西西金寺池をキュウシンヅツミ(旧新堤)、明昭池をシンツヅミ(新堤)と呼んている。地形上、シンヅツミとキュウシンヅツミは同じサコ(谷状の水田)にあるため、上の位置にあるキュウシンヅツミの水は、すべてシンヅツミに入ることになる。つまり新しい池と旧来からの池の水は実際には混じってしまう。しかし、シンヅツミに設けられた樋の開閉方法など、シンヅツミ築造時の取り決めにより、シンヅツミの水が掛かる田とキュウシンヅツミの水掛かりとは明確に分けられており、キュウシンヅツミの水利組織はシンヅツミ築造に伴って作られた新規の水利組織とは統合されることなく別個のまま残された。もしひとつの水利組織に統合されてしまうと、キュウシンヅツミの水までシンツヅミの水利組合員に等分されてしまうことになる。
 シンツヅミにはタテヒ(縦樋)が二ヶ所あり、一ヶ所はキュウシンヅツミのためのものである。キュウシンヅツミはタテヒの一番上のヒはいつでも抜くことはできるが、二本目のヒはシンヅツミのタテヒを抜いてからでなくてはできないことになっていた。シンヅツミに比べキュウシンヅツミは谷の上流側に位置するため、谷の水の多くはまずキュウシンヅツミに入ることになる。集水面においてはキュウシンヅツミの方がはるかに有利な位置にあるといえよう。堰堤に溜まる土砂を一年に一度掘り取らなくてはならない。そうしないと、土砂がキュウシンヅツミに入ってしまうためである。こうした作業はキュウシンヅツミだけではなく、シンヅツミの水掛かりの人びとも一緒になっておこなっている。共同労働の面においても、キュウシンヅツミはシンヅツミに対して優位な位置にあったということができよう。
 「新池」は多くの水利組織に共通してみられるもので、だからこそ時代とともに溜池の呼称が変わるという現象はある程度、普遍的なことと考えてよい。大道内にはいくつもの「新池」が存在する。溜池の名称は、行政シベルでは重複かでないよう、集落名や小字名に番号を組み合わらるなどして記号化されてゆく。溜池を特定することに特化した命名法であるといえる。水利組織のレベルでは、その中でだけ通用する名称(地域名称)と、行政に届けを出すときに使う名称(行政名称)という二つの名称の使い分けがなされていることが多い。「新池」や「旧新池」がどうして生まれたかといえば、その地域ら元からある溜池に対して築造の歴史的前後関係を示す必要があったからだと考えられる。地域住民にとって、水利の歴史を示すものとなっており、それと同時に水利に関する諸々の権利を再確認させる働きもしている。こうした水利慣行についてはむしろ明文化されることの方が珍しく、巨大溜池においてでさえ文書記録として残るのは何か問題があったときの交渉事や届出そして紛争に関連することかほとんどで、日常的な水管理の営みについてはほとんど明文化されることはない。地域住民にその権利関係をたえず意識させ、再確認させる機能が、シンヅツミやキュウシンヅツミといった地域名称にはあるといえよう。地域名称はそれ自体が水利慣行の記録装置といってよい。
 現在は土手も崩れ形の上ではキュウシンヅツミと一体化してしまったが、キュウシンヅツミが造られる前にはモトノツツミがあった。つくり、モトノツツミがまずあり、その下に新たにキュウシンヅツミが造られる。その後、三つ目の溜池としてシンヅツミが造られた。民俗の発想として、つねにもっとも新しい溜池が文字通りの「新池」となるというものである。今暮らしている現在に力点が置かれ、溜池名称の組み立ても現在を起点に構成し直されるのである。「新」「旧新」「元」といった文字を用いることで名称自体に歴史性を付与したこと、それらを組み合わせることでさまざまな記憶をその名称に記録できるようにしたこと、さらに記憶が付加されるとき溜池の名称変化は起こる。溜池と名称とを一対一対応させようとする行政の指向性とは対照的である。

 

 ということて、前述した「共時的世界における行政による溜池名称の掌握法は歴史的「記録」の典型を示す一方で、通時的世界における溜池名称とその変化のあり方は民俗的「記憶」のやはり典型といえよう」という結論となる。Googleマップを見ると、大道の事例が具体的に想起できるだろう。たくさんあるため池の中には連続しているものがけっこう多い。これらが元→旧新→新といった具合に記憶と記録を刻んできたのだろう。傾斜地の多い長野県内ではあのり「新池」という名称は多くないが、ときおり聞く名称である。それらの背景を読み解くのも良いのだろう。

続く

参考に国土地理院の地図へ

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