Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

山村に生まれる後悔の山

2017-01-27 23:29:39 | つぶやき

 きのうのことだ、下伊那の山の中の道を走っていると、カーブを曲がりきったところにパトカーが停まっていた。ふだんこんなところに車が停まっているのも見たことのないような場所だ。なぜならば日陰地でとりわけ冬場にこのようなところに車を停める人はいない。用事を足して再びこの道を戻ってくると、パトカーは同じ場所に停車している。明らかに様子をうかがっているという光景で、帰り道に気がついたのはパトカーが停まっている先のカーブを過ぎたあたりに右から道が合流している。ここには小さいが「止まれ」の標識が立っているようだ(裏側から見ているから「止まれ」と確認はできない)。ようはパトカーは一時停止違反を捕まえようとしているかのようだ。もちろん確かめたわけでもなく、違反者が捕まっている姿を見たわけでもないから想像に過ぎない。とはいえ、この山の中の、確かに県道脇のことではあるが、通行車両もそう多くない空間でのこの光景には、「なんとも」と思ったしだい。そもそもこの一時停止側からやってくる車は、ほとんど地元の人たち。そしてその通行車両も極めて少ない。少ないから違反者を捕まえやすいかもしれないが、わざわざ地元の、それもほとんどがお年寄りだろうと思われる対象者をあてにして何をしようとしているのか…。

 「これが仕事か」と問えば当たり前のようにそう答えるだろう。そもそも違反者を捕まえるために身を隠すのは、対象者が犯罪者の場合であって欲しい。しかし、この対象者はどうだろう。ただでさえ人口減少であえいでいる山村の、それも昼間ならそれこそ高齢者しかいないだろう空間で、おまわりさんがやることなのだろうか。以前にも触れたが、一時停止で確実な一時停止をする車はほとんどいないと言っても良い。とりわけ山間の車の通らないような道では顕著だ。だから危険だといえばそうかもしれないが、警察は完全な一時停止でなくても捕まえることはしない。徐行程度だと捕まえる。この空間で両者の間にとれほどの違いがあるんだ、と思うが、そもそも違反者から反則金を取るためにやるのならもっと他の場所でやれば良いこと。一時停止に至っては、その停止の仕方が適正かどうかを指導すればよいことなのだが、それはしない。捕まえた人にだけそれをしても意味をなさない。とりわけ一時停止は曖昧な人が多いのだから、街頭では指導をすればよいことなのに、捕まえやすい一時停止違反とか、進入禁止違反などに傾向気味だ。こんな仕事をしていて充実感があるのか、と問いたくなる光景だ。


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