Cosmos Factory

地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

小布施の大日如来

2016-11-05 23:54:30 | 歴史から学ぶ

川谷から流されたという大日さま

 

満海和尚の大日如来

 

 小布施町福原の集落内を通る道の脇に立派なお堂があって、その中に赤い前垂れをつけた大日如来が安置されている。「子育ての大日さま」と呼ばれているらしく、信仰の篤さが伝わる。堂内掲げられている説明版によると、背部に「寛永八年七月五日」と刻まれているというが、はっきりとは解らない。寛永8年といえば1631年。江戸時代に入って二つ目の元号である「寛永」、古いことがそれだけでも解る。右肩に「信州」とあると書いてあるので確認してみると、確かに「信州」らしき文字が。そもそも「信州」という銘文はそれほど見かけることはない。福原村の成立が寛永8年だったというから、村の始まりからこの大日如来があることになるが、『小布施町の石造文化財』によると、「川谷より拾ってきた大日さん」とある。説明版にも「もとは鳥居村川谷の地蔵の浦という所に祀られていた如来さまで、大水害の時流されたもの」とある。鳥居村とは現在の飯綱町、旧三水村にあたる。川谷は鳥居川に沿ってある集落だ。ようは福原村の始まりとは無関係だということ。たまたま流されて塩原村にやってきたというわけだ。そのことについて「享和元年(1801)、その時の吉田家の戸主・金七という人に、夜な夜な夢枕に、如来さまのお姿が現われて、、「われを救い上げよ、われは福原へ行きたい。そして四月二十日を以ってわれを祀れ」というお告げがあったので、ある分家を共に、朝早く行って見たところ、鳥居川で石を枕にして、如来さまが寝ておいでになられた」という。

 安山岩に彫られた大日さまのお顔はなかなかのもので、目も鼻も口も、凹んだところがそれらしい。いたずらなのか、それとも信仰なのか、左頬のあたりに朱の色が残る。堂の正面には「大日堂」と掲げられている。前掲書には次のようにも書かれている。「大変子どもが好きで、堂はいつも子どもの遊び場であった。しかし、いたずらが過ぎるので、格子戸を作って子どもが入れないようにしたところ、家人が相次いで病気になった。そこで格子戸を取り外したら病気が治ったので、今もって堂には格子がない。」

 小布施町をまわっていると大日如来がよく目に付く。同じ福原の大日堂から少し北に行ったところ、観音堂の前にある覆屋の中にも大日如来が安置されている。こちらは前掲の大日さまと違って信仰は廃れてしまったのか、覆屋の前の空間は伸びきった蕨が鬱蒼としている。こちらも彫りそのものは単純で、顔の表情ものっぺらとした感じだが、背面に銘文が。何と前傾の大日さまと1年違いの建立。「寛永七庚午」とはっきり読み取れる。さらに「小布施村 開山圓空満海法印 十月廿五日 小林氏」と続く。やはり前掲書によると、福原新田を開発したという小林弥左衛門こと、満海和尚の姿を彫ったものという。ここでちょっと違和感のあるのは「小布施村」である。もしかしたらこの銘文は、後世に彫られたものではないだろうか。

『長野県』 ジャンルのランキング
コメント   この記事についてブログを書く
« 売木へ | トップ | 現代の道祖神⑧ »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史から学ぶ」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL