Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

栄村へ・中編

2011-06-10 20:35:29 | つぶやき

 

 栄村へ・前編より

 野沢温泉村のある千曲川右岸から左岸側へ国道を渡ると、地震被害の姿が歴然としてくる。とくに著しかったのは横倉や青倉である。国道への損傷も著しく2車線ある道は片側だけがかろうじて通れる。南斜面で背後を山に囲まれた温暖な集落は多くの家が被災を受けている。かつて平滝から野々海池へ通じる道路の改修にもかかわったし、野々海から青倉に導水する水路の改修にもかかわった。平滝から野々海池、そして青倉に下りるというコースの道は何度も走ったものだ。野々海池から新潟県松之山へ抜けることもあった。あの時代の道しか知らないが、今はだいぶ整備されていたのだろう。

 ちょうど野々海あたりはネマガリダケの季節である。今年はよそ者がそれを採りに入るのは困難な状況だろう。季節だけに他県からもタケノコ採りに入る人が多い。事実宿泊した北野天神温泉を利用した客は、早朝外出して帰館した際にはタケノコをしっかり手にしていた。この地をよく知る同僚たちが、時間があればタケノコ採りに入りたいというそぶりをするのも無理はない。しかし現場まで1時間半以上かけて通う同僚たちにはその余裕はなかった。遠くから訪れたわたしは、たまたま現場近くに宿泊したため、実行しようとすればできないことではなかったが、そもそもネマガリダケへの思い入れはまったくない。かつて飯山に暮らした際に、ネマガリダケとモウソウダケやハチコなといった類のものを対比して、味論争をしたことは一度や二度ではない。口に合わないというわけではないが、この地域の人たちが必至に採って歩き、山の中で迷ってしまうなどという真剣さには理解できないものがあった。現場に出てたくさん採って生家にお土産として持って帰っても、料理の仕方も知らないようななかで、聞いたとおりにタケノコ汁を作っても、とても喜ばれたという記憶は一度もない。むしろ厄介なものを持ってきたという印象がある。そんなことを会社に戻って話すことは、まったくのタブーであった。当時はネマガリダケに限らず、春も秋も、肥料袋いっぱいの山菜を土産に生家に帰ることが頻繁だった。山菜の宝庫であることは今もかわりがない。

 被害の大きかった横倉や青倉は村の中心である森宮野原に近い。そういうこともあって村中心部でも被害が目立った。わたしたちはそこから少し離れた志久見川沿いが担当の現場だったが、建物の被害は青倉などと比較すると少ない印象を受けた。ちょうど県境を流れるこの川は、千曲川の支流になる。口元の志久見からさかのぼると最も奥の集落が極野(にての)である。前編で触れたように、この川を挟んで右岸側に津南町の集落が、左岸側に栄村の集落が点在する。平坦地、あるいは耕地の広がりという面では右岸側の方が開けている印象は、地図を見てもすぐに解る。北野天満宮を中心にした地域は「七野」と言われ、「野」のつく集落が7つある。口元から当野、半大野、北野、中野、極野とあり、天代川沿いに天野、坪野とある。七野の入り口には野口があるから八つの「野」ともいえる。北野天満宮を中心に七野が展開する様は、洛北七野と呼ばれる野で知られる京都北野天満宮と類似する。

続く


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