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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

セイドーボー行事

2006-06-18 00:51:22 | 民俗学


 先日長野県民俗の会156回例会があって旧更級郡大岡村(現長野市)を訪れた。以前にも紹介した「芦ノ尻の道祖神」の藁人形を発端とした、人形道祖神について参加者で考察したわけだ。長野市立博物館の細井氏は、これまでの研究史と大岡を中心に分布するセイドーボー行事から分析し、芦ノ尻の人形道祖神はセイドーボー行事との融合により誕生したのではないかと説いている。考察することになった要因は、芦ノ尻の道祖神のように藁製の人形を被せる風習は近在にはなく、どこか特異的にそこにだけ残っていたためである。なぜこのような人形を被せるようになったのか、という点についてさまざまに考えてみたわけだが、作られる時期は異なるとしても、3月の彼岸に行なわれるセイドーボー、あるいはデイドーボーという行事とのかかわりが考えられたわけだ。

 セイドーボーあるいはデイドーボーといわれる行事は、春彼岸の日に、藁人形に疾病などの厄を負わせ、ムラ境まで送るという行事である。大岡においては九つの集落においてこの行事が行なわれた、あるいは行なわれている。すべてが春彼岸に行なわれていて、数珠繰りをしたのちに村境に人形を送るのである。ちなみに人形道祖神を作る芦ノ尻では行なわれていない行事である。写真は大岡慶師(けいし)のデイドーボーである。このデイドーボーが送られた場所から百メートルほど東には、相対するように外花見(そとけみ)のセイゾーボー(集落によって少しずつ呼称が異なる)が送られている。その姿は両者が相対立しているかのようで、両者にとっての送る場所がどういう意味、あるいは認識をされていたか興味がわく。

 確かにどちらも人形を作り、またそこに託す意図は何かしら類似点は多いが、特異的にとらわれがちな芦ノ尻の道祖神習俗を人形送りの行事と融合させるにはもう少し解明しなくてはいけない点が多い。むしろ道祖神に小屋掛け風に飾った注連縄が、形を変えて人形になったという見方の方が理解しやすい。芦ノ尻の人々が独自で考え出したもので、それほど意味があってよその風習が影響したと捉えるには無理があるようにも感じられる。

 この大岡から安曇野にかけての地域では、春彼岸に人形を送る地域が多い。大岡でも集落によって男女2体の人形を作ったり、参加者の人数分の人形を作ったり、あるいは各家1体作ったりと人形の数は異なる。しかし、多くはそれぞれの家の災厄を送るというような意味があって、人形ではなくても神送りの旗をそれぞれで作って送るというような風習もあって、それらの原点は同一と思われる。平成2年に大岡から北西の明科町清水の〝風邪の神〟という行事を訪れたことがあった。各家から「風邪の神」などと呼ばれる藁人形を集会所に持ち寄り、円陣の内にそれらの人形を置き、まわりで藁で作られた数珠を回して念仏を唱えるのである。数珠繰りが終わると、村境の崖の上まで行ってその人形を投げ捨てるのである。大岡ではほとんど村境に立てるという行為で終わっているが、大岡から長野市田野口に入った軽井沢というところでは村境に捨てている。立てるにしても捨てるにしても厄を送るという意図は同じようである。


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