Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

井伊谷雑感

2017-12-16 23:47:28 | つぶやき

龍潭寺庭園

 

井伊家墓所(五輪塔5基のうち右から二つ目が「次郎法師」、真ん中が「直親」、左端が「直政」)

 

 これまでに宗良親王のことは何回か触れた。長野県民のほとんどが宗良親王のことを知らないが、飯田下伊那、とりわけ大鹿村の人ならほとんどの人が知っている名前だ。ウィキペディアの「大鹿村」の項をみてもこの名は登場する。「南北朝時代に南朝方の宗良親王(後醍醐天皇の皇子)がこの地の豪族香坂高宗に庇護され、以後30余年に渡って信濃宮方(南朝)の本拠地となった。」と記載されている。33歳から30年間大河原で暮らしたというのだから、この地がいかに宗良親王にとってウエイトが大きいかはわかる。以前にも触れた通り、親王の后は除山のことを「この山がなければ月が綺麗に長い時間見えるのに」と言った。この除山にリニアのトンネルがくり貫かれようとしている。そんな中世に遡る地の解説にも、おそらく「井伊谷」という地名は何度となく登場していのだろうが、井伊谷が身近でなかったためだろうか、記憶からはすっかり抜け落ちていた。

 大河ドラマの地井伊谷を訪れ、龍潭寺から井伊谷宮と散策した。龍潭寺の裏手にある井伊家墓所のすぐ北側に宗良親王の陵墓がある。前述したように大河原に30年も暮らしたという親王の終焉の地なのである。終焉の地にはいくつか説があり、大河原釜沢にある宝篋印塔も親王の墓と伝えられている。井伊谷宮の裏手にある親王陵墓は、宮内庁の管轄のため残念ながら中まで足を踏み入れることはできない。

 井伊谷を含めてあらためてこの地域が信濃の国と縁が深いことを、そんなところにも知ることができる。伊那谷には龍潭寺や井伊直親が落ちのびた松源寺と同じ臨済宗で現在の妙心寺派の寺院はいくつかある。そういえば、生家の檀那寺も同じ妙心寺派である。きっと今年の井伊谷は観光客で賑わったのだろう。歴史上の人物として、そして歴代大河の中でも、あまりはっきりしない人物だったのではないだろうか「直虎」は。

 大河ドラマに遡上しなければ一生訪れることはなかった龍潭寺、あるいは井伊谷だったかもしれない。引佐町といえば方広寺のある場所。かつて方広寺は訪れたことがあったが、さすがに井伊谷はわたしの目的地にはなかった場所だった。


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