Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

年明けの墓参

2011-01-06 19:52:07 | ひとから学ぶ

 以前「夫婦塚」という墓標について触れたことがある。その「夫婦塚」のある墓地に、この正月明け訪れてみた。実はこの墓地、中央に町道が走り、その両脇に広く展開された墓地で、町道に沿って広く駐車場が設けられている。それほど通行量のない道の脇に広がる駐車場は、昼にもなるとほぼ毎日必ず1台の車は停まっているものだ。墓参に来たわけではない。昼をそこでとるわけである。昼をとる場所についてはわたしも現場に出ることが多いこともあって、その選択については今までにも触れたことがあるが、この墓地の駐車場は日陰がないため、さすがに夏場は避けられるが、冬場の寒いころなら、むしろ日向の方が好まれることから、こうした昼をとる場所として選択されたりする。昼だけではなく、この見通しの良い空間には、それ以外の時間帯にも時おり車が停車している姿を見る。いっぷくし易い場所とでもいえるだろう。

 もちろんわたしもいっぷくしようとして立ち寄ったわけであるが、あまりの雑草だけらけの空間のため、むしろそのことが気になって、少し墓地内を歩いてみた。墓地の配置図から察すると約380区画ほどある墓地は、町が造成したものらしい。そのうち利用されている(この場合の利用とは、墓石が建っている、あるいは墓標が建っているという意味)区画は全体の2割程度だろうか。造成されてもう10年以上は経過している墓地で、この利用率がどの程度なのかはわたしには解らないことであるが、空き区画が目立つことは事実。というかその空き区画の雑草が、この空間のイメージを悪くしているのである。加えて墓石の建てられている空間に目をやっても、枯れ果てた顕花が寒風になびき、やたら鮮やかな造花が、そうした枯れ果てたものと不可思議な印象を与えている。顕花の枯れたものはともかくとして、墓地内に生えた雑草が処理されずにいる墓地も少なくない。それぞれの墓地内がそのような有様だから、共有空間などさらに雑草がひどい。回廊式の歩道の脇に植えられた植栽が、そうした雑草に覆われているのはもちろんのこと、周囲のフェンスにすら覆い被さるような雑草が目立つ。ようは共有空間の維持というものがされていないことと、そうなってくるとそれぞれ区画された空間も綺麗にしてあるという雰囲気を消してしまう。見晴らしの良い空間であるが、これが墓地の現状なのだろう。地方で新たに設けられた墓地も、空きだらけでぽつんぽつんと墓石の建つ姿を時おり目にする。共有空間の共同作業という意識をもたないと、埋葬された方はもちろんのこと、これからそこに埋葬されると思われる人たちにも寂しさが漂うだろう。

 墓地全体を見渡して、年が明けて墓参された様子はうかがえなかった。『長野県史 民俗編』南信地方版には、年が明けていつ墓参をするか、という質問をした民俗地図が掲載されている。南信地方を概観すると、諏訪地方はほとんど1月16日、上伊那地方は彼岸、上伊那でも南部に入ると事例がぽつんぽつんとしていておそらく年を明けて墓参をするという意識があまりなく、稀な事例として元旦や小正月、あるいは彼岸というものが混在する。それは下伊那に入っても同様だが、このあたりから飯田市あたりまでは元旦という事例が目立つ。飯田以南では1月13日から15日の小正月という事例が圧倒的に多くなる。飯田市誌編纂が行われた際に行われたアンケートによれば(このアンケートは編纂事業中止によって利用されていないもの)、図のような分布になる。混在しているが、傾向としては飯田町に近い北部では元旦が多く、南部や天竜川東岸地域では小正月が多いことが解る。これは『長野県史』の地図とほぼ一致するもので、とくに「元旦」墓参がこの地に多いことが解る。それがためにここで触れた墓地が雑草で覆われているのは当然と言えるわけではなく、そもそも雑草はそれ以前の環境整備の問題である。

 飯田市(平成の合併前)図 

 こうした墓地を見ていて思うのは、代々の墓地を持っている家はともかく、新たな墓地を取得する者にはこうした現実を見た上で、その選択をされることをお勧めしたい。やはり共同墓標がこの時代のもっとも推薦できる方法ということになるだろうか。どれほど立派な墓石を建てても、周辺がこのような状況ではもったいない、ということになる。


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