Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

描かれた図から見えるもの③

2015-03-26 23:49:58 | ひとから学ぶ

描かれた図から見えるもの②より

 天竜川を上下に描く構図は伊那谷全体を示す方法としては大変解りやすい。しかし、実際はこのGoogleマップで見ていただければ解るように、10゜ほど傾いている。この傾きを正確に表すことも多いが、意外と10゜の傾きを無視して南北を天竜川、ようは谷の南北として表している図は略図に多い。まさに「描かれた図から見えるもの②」で示した豊丘村の昭和54年ころの観光パンフレットにあるイラストマップはそうした事例である。これも地元で暮らしている人たちにとっての視点であって、よそからやってくる観光客にとっては少し違和感を抱くことかもしれないが、このくらいの誤差は気にはならない。

 「描かれた図から見えるもの①」で示した現在の豊丘村の観光パンフレット「おいでなんしょ」にある案内図は、ある意味異質な事例ではあるが、村内を解りやすく示すにはこれが最良だと考えた末のものなのだろう。その異質さを示す意味でも、下伊那郡内のほかの市町村のパンフレットを総覧してみる。するとやはり天竜川左岸にあたる大鹿村と喬木村、そして右岸の高森町において明らかに北を上に示さない案内図が掲載されていた。また飯田市のパンフレットに掲載されている詳細図、ようはスポット的に示した案内図に方位を別に示すものが掲載されていて、その方位は場所によってそれぞれと、おそらく解りやすくする、あるいはページの構成上方位を変えたと思われるものが見られた。残る全町村は、真上を北にする、あるいは方位を示さない、いわゆる上がほぼ北であるという認識の上で示されているものであった。豊丘村と天竜川を挟んで相対している高森町が上を北にしない案内図を示しているというところが注目されるだろう。このことはまた別項で触れるとして、まず、同じ天竜川左岸にあたる大鹿村について触れてみよう。

 大鹿村は旧鹿塩村と大河原村が明治22年に合併して現在の大鹿村となった。すでに130年近く合併とは縁のない村である。鹿塩と大河原はほぼ北南に位置し、ふたつの地域を並べると横の構図になる上に、豊丘村同様に南アルプスを上に配置し、下に天竜川とイメージすると、自ずと南北が横方向の豊丘村と同じになるわけである。現在の観光パンフレット「大鹿は山また山でいい景色」に掲載されている図は左を真北に示す方位が示されている。かつては南アルプスと天竜川の間にある伊那山地に挟まれた中央構造線の谷にはいくつかの自治体があった。しかし、今もこの谷に残る自治体は大鹿村のみ。ようは天竜川にはほど遠い位置にある村々にとっては、本谷である伊那谷にあってどういう位置にあるかをこうしたパンフレットにも示さなくてはならず、厄介なことだっただろう。このことはまた改めて触れるとして、大鹿村でも本谷である伊那谷からのルートを示している。この場合もいわゆる中央自動車道を横に配置し、天竜川を渡って奥まったところにあることを示す図を配している。ようは、伊那谷から見ても横方向の構図の方が解りやすい、ようは進入路は上に向かっていく(前進する)という方法がイメージしやすいというわけだ。いわゆるナビゲーションのイメージである。奥まったところにある地域こそ、方位を無視した案内の方が解りやすくなるという事例である。

 同様に昭和54年ころの大鹿村の観光パンフレット類を出してみると、観光案内用の封筒にガイドマップというものが印刷されていた。下図がそれである。前述したイメージがここにも表されているのである。とくに方位が示されていないのも、それを必要か否やという面で興味深い点である。

続く


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