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湯福神社 「御柱祭行列」 後編

2016-10-12 23:39:58 | 民俗学

湯福神社 「御柱祭行列」 前編より

武井神社と平成22年の御柱

 

万延元年大絵馬

 

大正15年大絵馬

 

昭和61年大絵馬

 

平成22年大絵馬

 

万延元年の御柱曳行

 

万延元年の三方

 

大正15年の御柱曳行

 

 湯福神社の御柱2本が一緒になって玉井薬局前を行列が出発する前に、大変興味深いものを見せていただいた。前回の御柱では善光寺門前の武井神社が舞台となったわけであるが、この武井神社に「御柱祭行列」の大絵馬が奉納されており、その絵馬を拝見することができた。武井神社は弘化4年(1847)の善光寺地震で消失している。その13年後の万延元年に再建され、その年御柱祭が実施され、その際の行列を描いたものが大絵馬とされ奉納された。その後大正15年(1926)、昭和61年、平成22年と3枚の大絵馬が奉納され、計4枚の大絵馬が拝殿内に掲示されている。それぞれの行列の絵によって当時の様子をうかがうことができる。

 まず万延元年の大絵馬である。この絵馬を見て最初に「おやっ」と思ったのは、御柱が大八車のような台車の上に立てて曳行されていることだ。これが実寸だとしたら、人の背丈より高い直径の車輪を付けた台車の上に俵らしきものが載せられ、その中央から御柱がにょきっと突出して立っているのである。俵の数は20俵ほどだろうか。そこから突出している御柱の丈は、4人分の背丈ほどあるから、長さにして今と同じ8メートルほどだろうか。むしろ太さは今の御柱以上に太そうだ。先は細く、根元は太いといった今の御柱よりはごつごつした感じの柱である。果たしてこれほどの御柱を立てて曳き回す姿が当時の御柱だったのだろうか。とても台車上に20俵ほどの俵を根固めにしても不安定だっただろう。どのように固定したのか、絵からは解らない。そして当時の御柱の先端には垂が回されていて、オンベを意図していたのだろうか。また現在のような薙鎌が打たれた様子はうかがえない。ちなみに先頭から東町・後町・田町・権堂村・両宇木村・問御所村・大門町・横町・伊勢町・岩石町・東之門村・七瀬村の順に町旗が並んでいる。その町旗の後ろに続いているものがその町の奉納物とすれば、一の柱は東町、二の柱は田町が出したもの、ということになるのだろうか。二の柱に続いている権堂町は、山を模した上に人形らしき物が掲げられているし、門御所村の後ろには巨大な三方の上に載せられた瓶子が目立つ。言ってみればそれぞれの町の奉納物、あるいは出し物(山車とも)の一つに御柱が位置づけられるようにも見える。そもそも御柱を横たえて曳いている現在の御柱とは大きく異なるのである。

 同じように御柱を立てて曳いている姿は、大正15年の大絵馬にも見られる。何より大正15年の絵馬には御柱が4本曳かれている。昔は御柱が4本あったと言われているが、それを証明する大正15年の絵馬であるが、逆にいえば万延元年の絵馬には御柱が2本しか確認できず、さらに昔は2本だったとも言える。ちなみに大正15年の絵馬でも東町と田町の町旗の後ろに御柱が続いており、残りの2本は権堂町と東鶴賀町の町旗に続く。さらにこの大正15年の絵馬にはそれぞれの町の榊山(これは山車代わりか)が見て取れる。またこの年の御柱には薙鎌が打たれた状態で描き込まれている。

 続く昭和61年の大絵馬でも御柱は4本曳かれており、これもまた御柱が立った状態で行列に加わっている。おそらく昭和61年の御柱は柱を横たえて今のような曳き方をしていたと思うのだが、あえて立てて描いたのにどういう意味があったものか。

 さて、4枚目の平成22年の御柱行列は、いよいよ柱は横たえて曳かれている。酒樽を載せた榊山は軽トラックに載せられており、時代を反映している。行列の中に獅子が舞いながら練っている姿があったり、山車が曳かれている姿があったりと、まさに練り行列を表しているといえる。御柱を曳くことに変わりはないが、その都度行列に加わる奉納物は異なっていたのかもしれない。時代背景が反映され練行列が編成されていたのだろう。

終わり

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