Cosmos Factory

地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

のっぺらぼう

2017-11-02 23:56:13 | つぶやき

 

 もうずいぶん昔のことだ。平成一桁時代だから20年以上前になる。したがってわたしはまだ30代に入ったころのこと。すでに今と同じライフワークを持っていたし、そう今とらえる世界が違っていたとは思わない。ところがなぜ「あのころは視野に入らなかったのか」そう思うことがよくある。

 旧高遠町越道は、旧町の位置から捉えると町はずれの集落。前に見える川は新山川であって、言ってみれば伊那市と言っても不思議ではないほど空間的には高遠とは少し違う世界だった。旧高遠町の上山田から峠を越えて入る集落だが、前述したように新山川の谷にあるから、そのまま下っていけば伊那市にたどり着くし、上っていけば伊那市新山に至る。それほど大きな集落ではないものの、仕事で何度も平成一桁時代に訪れた。調査などで集落内を車で走るのではなくくまなく歩いた。にもかかわらず、冒頭の双体道祖神など見た記憶がないのだ。けして視野に入っていなかったわけではないだろうが、全く記憶にない今の自分には、興味を惹かれるほどのものではなかったということになるのだろうか。以前にも記したが、今と同じ視線が若いころからあったとしたならば、色々なものが見えていただろう。そして今のようなデジタル時代が当時すでに到来していたら、20年後の今のわたしは随分違っていたのだろう。そういう意味でも若い人たちには恵まれた環境があると思うのだが、わたしが思うような捉え方はきっとできないのだろう。

 写真の道祖神には「享保十五年」と向かって右側に、左側に「戌二月 越道村」と刻まれている。碑高40センチ余、像高30センチほどという小さなものだが、見ての通り、顔はほとんどのっぺらぼう状態。先日もこの「のっぺらぼう」という言葉を使ったばかりだが、1730年から見れば300年近く経っているのだからあたりまえなのかもしれないが、しかしながら、前述の年銘などは今も読み取れるほどしっかりしている。年銘の彫りは浅いのに、像の顔はほとんど細工が消えている。もともと浅彫りだったのかどうか。それても村人に顔が消えるほど摩られたものなのか。顔だけではなく、合掌していると思われる手のあたりもはっきりとした形状は残っていない。のっぺらぼうであるが故に、温和な雰囲気を漂わせる、とても暖かい双神である。

 全体像を載せたかったが、日差しのためちょうど真ん中に影がかかってしまったので、上半身だけである。そして日差しのせいなのだろうが、一層印象深くわたしの目には映った。故に、なぜ昔印象深く感じなかったのか…。

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2 コメント

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のっぺらぼうの双体道祖神について (伊那の黒田)
2017-11-18 19:49:13
はじめまして。
伊那の黒田と申します。
本ブログ、時折読ませていただいております。
私、五年くらい前から地域の石仏などの面白さに気づき、特に高遠を中心に路傍の石仏を見て楽しんでおります。
おそらく年代も近い(私が少し下と思われます)と思われ、身の上の出来事、道路の運転事情の投稿など大変共感していたりします。

さて、のっぺらぼうの双体道祖神ですが、上伊那の双体道祖神はほとんどがのっぺらぼうで、はっきりした顔立ちの物はほとんどありません。
馬頭観音、聖観音など観音像も似た傾向にあります。
一方、青面金剛像であるとか、文字仏などは顔立ちや彫りがしっかりしたものが多くあります。
松本地区、諏訪地区にある石仏を見ても、高遠の石工が彫ったであろう物はのっぺらぼうがあり、別の彫り士や敢えての注文がある場合、表情のある道祖神になっているように見えます。
そうしたことから、高遠の石工の考え方として、道祖神など、身近な石仏は敢えて姿をぼかすように彫り、祀る集落に住む人たちが自分たちや家族をそこに見立てたりできるようにしているのでは?と個人的に考えております。
実際、これらに魂を入れたばかりの頃はどんな姿かたちだったのかと思うとロマンがありますね。
Unknown (trx_45)
2017-11-23 09:47:29
伊那の黒田様、コメントありがとうございました。
なるほどそういう考えもあるのかもしれません。具体的な顔ではなく、対峙した者の捉える顔を、自らそこに浮かべる。とはいえ、そういう思想があるとすれば、石仏に限らずそうした思想があったということにも繋がるのかもしれません。

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