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飯沼沢の数珠回しを訪ねる・後編

2018-02-14 23:51:05 | 民俗学

飯沼沢の数珠回しを訪ねる・前編より

 

 2月8日ころ行われると想定していた数珠回し、今年は2月12日に実施された。前回触れたように、現在は2月8日を意識しているわけではない。この日の本来の主旨は、「お釈迦様のお祭り」なのである。「お釈迦様の誕生日だから」と言っているから、もともとは固定していた日だったのだろう。とはいうもののそれは4月8日のことだ。したがって「誕生」「入滅」を間違えられている。ようはお釈迦様の祭りは2月15日の入滅の日に当てているということなのだろう。そうすれば2月12日に実施したのも頷ける。

 子どもたちが地区内を巡回して行っていた数珠回しが途絶えたため、地区の女性たちによって「お釈迦様のお祭り」に併せて数珠を回すことで継続した。正確にいつから今の形になったかについてははっきりしないようだが、ここ10年くらいのことのようだ。この日は女性16人が参加された。

 午後2時、代表の方が挨拶をされると「お釈迦様のお祭り」が始まる。お釈迦様の掛け軸を掛け、お供え物が置かれる。このお供え物を用意するために、それ以前から役員の方たちによって準備が行われるという。供え物には巻寿司、いなり、桜餅、みかん、イカ、白菜の漬物、うどん、そして「花草餅(はなくさもち)」と言われるコメの粉を練って作った餅が並ぶ。「花草餅」は、丸い棒状にしたものを輪切りにして作ったもので、赤や緑の色をつけたものも作られる。これら供え物の両脇に花が飾られ、最前列に長老格の女性が並んでお経の音頭をとる。まずは般若心経が唱えられ、次いで白隠禅師坐禅和讃、最後に舎利禮文が唱えられて終わる。すぐに数珠が広げられ、輪になって数珠回しとなる。前編で触れた通り、お経をあげる際は座っていたのに、数珠回しになると立って回す。その時は気づかなかったが、違和感は体勢の違いだったのだろう。数珠は右回しで3周回されたが、あらためて「どちらに回すのですか」と聞くと、「左回し」と言う。しかし実際は右回し。『辰野町誌』(昭和63年 辰野町誌刊行委員会)の記述によれば、「左手にある数珠を右手に持ち換えながら」とあるので、左回しが本当だったのだろう。赤い布キレが付けられたところに少し大きめの珠があり、その珠が回ってくると、お辞儀をして額近くにあげ念ずる。「ナムアミダブツ」を繰り返し終わるまで唱え続ける。赤いキレについては、前編で紹介した下村幸雄氏の「飯沼沢の数珠廻し」の中でも「つなぎ目の赤い巾」とあり、当時から付けられていたもの。この赤いキレについて、ある女性が次のように語られた。かつて数珠回しが地区内を巡回していた際、集落の東側にあるお地蔵様のところで最初に数珠を回してから地区内を巡回したという。そのお地蔵様のヨダレ掛けはその方が毎年掛け替えていて、そのヨダレ掛けの赤いキレを数珠にも付けたのだと。『辰野町誌』には「道祖神と地蔵様の前を通るときに「まひ」といって数珠玉と数珠玉の間に下級生の頭髪を挟んで引っぱることをした」とある。どういう意図があったか正確にはわからないが、文章のままに想像すると、いじめの如く見られなくもないが、頭の邪気を払うというような意味があったのだろうか。かつてのそんな様子をうかがってみると、「おばあさんがよく、髪の毛を玉の間に挟むように」とよく言っていたというから、道祖神のやお地蔵さんの前だけではなく、家々を巡回するさいにもされた行為だったようだ。

 お釈迦様へのお経が10分ほど、数珠回しは3分ほどと、15分もあればこの日のお勤めは終わりである。終わると場所を移して直会のお茶となる。お釈迦様に供えたものと同じものを、参加者全員でいただき、世間話で盛り上がるというわけだ。始まって1時間を少し回ったころ、お釈迦様のお祭りはお開きとなる。

 かつて数珠回しが地区内を巡回していたころは飯沼沢の数珠回しが注目を集めて新聞記事にもなったというが、巡回しなくなったら隣の下飯沼沢の数珠回しに注目は移ったという。平成26年度に変容の危機のある無形の民俗文化財の記録作成の推進事業により刊行された『伊那谷のコト八日行事』において実施地区としてあげられているが、「伊那谷の「コトの神行事」の一覧表」(128頁)には「飯沼沢」と表記されており、「平成二二年は四十戸を巡回」とある。しかし飯沼沢の当時の戸数は40戸なく、記載地区は下飯沼沢のことだろう。「中断していたが平成十二年ごろから再開」という記述も下飯沼沢のこと。文献として前傾の『辰野町誌』と下村氏が『伊那路』に掲載したものを後に『伊那路の祭』にまとめられた際のもの、そした「長野日報」の記事を参照しているが、前2例は飯沼沢のことを記したもの、後1例は下飯沼沢のものを記したもの、とようは2地区のものを1事例として扱っているため混乱している。

 さて、『伊那谷のコト八日行事』では、コト八日に「八日餅を搗く、ツトに3つのせ道祖神へ供える。戸口で胡椒を入れた籾殻を焼く」と文献からの引用を掲載している。確かにかつては籾殻の上にコショウを置いて燃やしたという話は聞けたが、「それは節分だった」というような意見が多かった。とりわけ飯沼沢ではお釈迦様の祭りと節分などが、とりわけ近年の休日開催に絡んでかつての日程が不明瞭になりつつある印象を受けた。これもまた伝承の希薄化というようなことなのだろうが、実施日の移動は、かつての実施日に対する意図が消滅しようとしている姿がうかがえる。とりわけコト八日は、その日に厄神がやってくるとから防ぐ意味で行われたもの。ところが日を変えたとしても厄神も休日に合わせてやってくるわけではない。本来の主旨に従えば、こうした日に対する意味があった行事は、日を変えてしまうと思いは叶わないということにならないのだろうか。


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