Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

いらない木

2016-11-11 23:29:29 | つぶやき

 

 秋も深まってきて、いよいよ落葉盛んな時期になる。そんなことをハンドルを握りながら思ったら気がついた。「そういえばここは街路樹があるんだ」と。飯田市銀座通りから桜町駅までの弓なりの道は、よく通る道。この道の両側には、確かに街路樹がある。が、しかし、ふだんこれほど通っていても、それと気がつくほど印象がなかった。きっと昔はそんなこともなかったのだろうが、今はなんたることか、と思うほどこの季節だというのに落葉の心配はほとんどない。ようは葉があまりついていないからだ。電柱なのか、街路樹なのか、そんな印象すら与えるほと同化している。枝が短く刈り込んであるから、葉が少ないというわけなのだ。「ずっとこんなのか」と思い進んでいくと、桜町駅の踏切にたどり着く。すると線路から西側は下の写真のように、若干枝が伸びて葉はがついている。とはいえ、イチョウの木にしては、かなり刈り込んである方だ。マチ中に限らず、落ち葉の片づけは手間のかかること。そしてマチ中なら一層注意を払うのだろう。なぜならば落葉によって路面が覆われれば、事故にもつながる。したがって毎日のように落ち葉の掃除をしなければいけなくなる。もちろんそう長い間のことではないが、マチ中だって住んでいる人、そして商っている人が高齢化しているから、それに手間をかける余裕はないだろう。とはいえ、それにしてもと思うほど街路樹が並んでいるのに、こんな様子だから、いっそ伐採してしまった方が良いのかもしれないが、それができない理由もあるのだろうか。東京あたりてセもマチ中にたくさんの街路樹があって、走っていてもそのイメージが強く残るようなところもある。マチに緑をとは容易い発言だが、今となってはそこに住む人たちには厄介なものなのかもしれない。

 とりわけ道路の傍を見ていると、車道と歩道との間の縁石の上のわずかなスペースに、植樹スペースをとっている光景を、地方でもよく見かける。さらに緩衝帯のように土のスペースが設けられ、そこに植樹されているドウダンやツツジを見かけるが、夏場には情けない光景を見せたりする。ようは雑草の管理がされないから、植樹されたそれらが草に覆われているというわけだ。管理を委託されて雑草処理をされている光景も見受けるが、こうした植樹された空間は手間もかかるのだろう、あまりそうした作業が行われることはない。したがって地方の景観を保とうと思っても、これまた容易ならぬことになる。かつてなら「老人クラブ」などという団体によって環境整備が行われたのだろうが、これほど老人社会になったのに、それら団体は消滅していった。今や老人による奉仕活動も目立たなくなったし、そのものが行われなくなっているのではないだろうか。老人世代には、実に大きな格差が生じているということではないだろうか。


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